2017年9月2日(土)マタイの福音書6章5節-15節
「祈る時は」 大角詩音師による
ある所に、一人のクリスチャンの若者がいました。彼はクリスチャンでしたが、なかなか祈りの生活を日々確保するのが難しいと感じていたところ、電車の中で「祈ることを教えて下さい」という本を読んだそうです。その本を読んでとても感動したその若者は、その日から毎日2時間は祈ろうと決意しました。そして、彼は家に帰ると祈り始めました。すると、30分もすると何を祈れば良いのか分からなくて、「おいねり」を始めました。そして、はっと起きた彼は「祈ることを教えて下さい。でも、その前に睡魔に勝つ方法を教えて下さい」と祈ったそうです。
実は・・・これは私の話しです。祈ながら寝てしまうことを、「おいねり」と言ったりします。メッセージを聞くことによって、また祈りについての証、本を読む度に「よし、祈ろう!」とは思ってもなかなか続かないのが祈りです。祈ることは大切だと分かっていても、祈る時間がないと思ってしまうほどに私たちは忙しい生活を送っているかもしれません。しかし、「祈れないほど忙しい」という本の中にもありましたが、これは優先度の問題でもあります。祈ることを優先するのか、他のことを優先するのか?祈りは、クリスチャンライフの中心です。今日は、もう一度祈りについて、その大切さについて神の言葉を聞いていきたいと思います。
今日の箇所でイエス様は祈りについて2つのことを教えています。
一つ目は「祈る態度」についてです。祈る時は、「自分の栄光(賞賛)ではなく、神の栄光(賞賛)を求める」という態度が必要だとイエス様は語ります。
「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」(マタイ6:5)祈る時は、人に見せつけてはいけない。そうではなく、「隠れたところで祈なさい」とイエス様は語ります。
当時のユダヤ人たちは、日に3度ある祈りの時間にそれぞれの働き場の中で祈っていました。通常は、大通りの角で祈ることはありませんでしたが、人目の多いところで祈る人たちもいたのでしょう。それは、多くの人に自分が祈っている立派な姿を見せたい。「私は、これほど祈っている」という自負心の祈りです。
このような人に対して、イエス様は「すでに、彼らは報いを受け取っている」と語ります。「あの人は、あれ程までに祈っているなんてすごいな〜」と言われるのであれば、人からの賞賛という形の報いをすでに受け取ってしまっているわけです。本当は、祈りの報いは「神様から賞賛」です。「よく、私を頼ってくれた」と神様が喜ばれる、そして祈りが聞かれることによって、「神様はやはりすごい」と言われることが祈りの目的です。
今日の聖書箇所の少し先に、こうあります。
「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:20-21)
祈りとは、地上で神様のみわざを見るため、また天に宝を積むためにされるべきものです。
私の知っている人の一人に素晴らしい働き人がいます。その方は、大変よく神様にお仕えしている方ですが、何人かの人が「もったいない」と言っている方でもあります。いつも昼も夜もなく、イエス様のために素晴らしい働きをして、祈りを持って、天に宝を積んでいる方なのです。
しかし、その方は自然に自慢するのです。本人は自慢と思っていないと思うのですが、ポロっと「僕はね〜」と自分の話をしてしまいます。ですから、友人と共に「あの先生は素晴らしい天に宝を積んで、素晴らしく天の宝を崩しているね」と話し合ったことを覚えています。きっと天国の貯金の通帳を見るのであれば、激しい変動が見られるのではないでしょうか?
「祈っている自慢」をする人には気をつけた方がいいですね。私たちは、思わず自慢をしたくなるものです。私たちの罪の性質は、「自分の栄光を求めます」。先月、私は人生で初めて峰町キリスト教会の第三礼拝で賛美リードを担当しました。賛美リード自体は、多くの教会で奉仕させて頂いているので、緊張しないと思っていたのですが、ひどく緊張してしまいました。いきなり、「お立ち上がりになれる方は、お立ち上がりくだちゃい」と噛んでしまったのです。その後に「この生まれた育った教会で賛美を導けることを、神様に感謝します」と話すと、列席されていた方々から拍手を頂きました。その時、私は非常に困ってしまいました。「礼拝は、神様が褒められるべきなのに、私が褒められている」と。正直、良い気持ちもします。しかし、慌てた私は、天に拍手をしました。自分が褒められることの誘惑から逃げることが祈りの秘訣です。
ですから、私たちは「奥まった部屋」で祈るべきです。これは、公でいるのべきではないということではありません。祈りの心の態度の問題です。誰かのために祈っていた結果、その人が良い状況に進むこともあると思います。けれども、「私の祈りおかげ」と言わなくても良いかもしれません。その分、天に宝をつむことができるのです。
また、神様と個人的な祈りの場も私たちには必要です。祈りとは、神様への願い事も含みますが、「神様との会話」です。一緒に、神様に語りかけるだけでなく、個人的に話し合うことも必要です。私も大学時代に苦手な先輩がいました。その人とは、2人っきりでは話がうまく出来ないのですが、3人になると話すこともできました。私と神様の関係も同じようでは寂しいものです。神様と2人きりのデートを楽しむこと、私たちのクリスチャンライフを豊かにします。
「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな」とは、長く祈るなという意味ではなく、日本には八百万の神がいると言いますが、多くの神々に祈るように祈るなという意味です。
神様は、私たちの必要を全て知っておられます。あれも、これも祈らないといけないということではありません。神様は必要さえも知っておられますから!ですが、祈るべきなのです。エペソにはこうあります。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(エペソ4:6-7)
それでは、どのように祈るべきでしょうか?イエス様は、「主の祈り」として有名な祈りを私たちへの模範して教えられました。ここに、6つのことを教えています。それは、以下の通りです。
1「神の栄光」
6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
「神様のみに栄光があるように」先ほどまでと同じテーマです。また、「私たちの父よ」と呼びかけているのは、私たちに最善しかなさらない天のお父さんと呼びかけているのです。
2「神の国の実現」
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
神の国が来るとは、神様の支配がこの地で広がりますようにという意味です。天国での生活をイメージしてみてください。それと同じような素晴らしさがこの地でも起こるように祈るのです。また、そのために私たちも用いてくださいと祈っています。
神の国がどこにあるのか?とイエス様が尋ねられた時にこう答えられました。
「ルカ17:21 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」」
私たちがイエス様を信じた時に、聖霊様が私たちと共に、中に入られます。そして、御霊に満たされた時に、神の国が私たちを通して広がっていくのです。
3「生活への信頼」
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの必要も祈って良いのです。しかし、これは不安から生まれる祈りではなくて、
「6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」とあるように、神様に必要は満たされると委ねて安心して生きる生き方です。
4「赦しの実行」
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちは、すでに完全に赦されています。ですから、赦しをこう祈りではありません。赦しを感謝して、それを生活の中で現してくださいという祈りです。
赦しに関しては、14-15節で詳しく説明されています。「もし、私たちが人を赦さなかったら、私たちの赦しも分からなくなる」という意味で説明されています。赦すというのは、赦す側にも、赦される側にも素晴らしいことです。
5「悪との対決」
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
人生には多くの谷や山や崖があります。そして、試みもあるのです。クリスチャンになっても罪に誘う誘惑はたくさんあります。ですから、毎日、私たちを誘惑から、悪から助けてくださいと祈ることは有益です。そして、全ての悪に神様は打ち勝つことができると告白しましょう。神様は、耐えられない試練は与えません。
6「頌栄」
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
最後は、神様への賛美で終わります。全ての栄光は神様のものです。
私たちは、このように祈ります。この祈りは「私たち」という形で書かれており、「公」の祈りです。ですから、毎週の礼拝の中で共に神の栄光を求めて祈ります。また、同時に私たちが日々祈る「個人」の祈りでもあります。日々の生活の中で、神様の栄光を求めて祈っていきましょう。