20170415創世記50章「約束の地を目指して」
昨日(金曜日)はグッドフライデー・イエス様が十字架に掛かってくださったことを特別に思う日でした。そして明日はイースター(復活祭)です。私達のために十字架に掛かり、よみに下り、三日目に死を打ち破って復活されたイエス様を覚える特別な日です。イエス様の復活があるからこそのキリスト教です。
イエス様はヨハネの福音書11章25節・26節でこうおっしゃいました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
「生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか?」と質問されたら、なんと答えますか?「はい、もちろんです!」「信じるだけで、死んでも生きる命がもらえるなら、はい!信じます」
「永遠のいのち」とは、イエスを信じる者に、信じた瞬間に与えられるもので、ただ単に時間的にずっと長いという意味ではなく、時間を超越した、質的にも全く新しい命のことです。その命が与えられることは、なんという恵みでしょうか?
イエス様を自分の救い主、人生を導く主であると受け入れて信じた人は、天国に行ける約束があるのです。礼拝を休んでも、ご奉仕や良い行いを一生懸命しなくても、聖書を毎日読んでお祈りをしなくても、イエス様を信じるだけで、天国に行けるのです。永遠の命が与えられるのです。そう思ったら、なんだか楽になるでしょう!? だから福音・だから恵みなのです。
福音とはなんでしょうか?生きておられる主イエス・キリストが「いつも私と共にいて下さる」ということを大前提として、そのイエス様が「して下さる」「与えて下さる」という事です。パウロが繰り返して「恵み」と言ったのはこの事です。自分の努力や功績では、決してありません。
すべては主イエス様の御業です。救いは恵み、そして礼拝を通じて主と共に生きるようになる、それが福音です。もし自分自身の心の中に「信仰生活はこうあるべきだ!」「なまぬるい信仰生活をしていない人はダメよね」なんて思いがあったら、それは福音の恵みから外れています。
イースターの時に、もう一度、イエス様の十字架と復活を覚え、神の愛と恵みに心から感謝を捧げ、ヨハネによる福音書 8章31~32節でイエス様が「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃった事を覚えて、感謝と賛美を捧げたいと思います!
さて、50章は147年の地上で生涯を閉じた父ヤコブを葬る中、神のお計らいの中にある家族の一致、そしてヨセフの最期における神の約束です。
ヨセフは息絶えたヤコブの顔に取りすがって泣きました。先ほどの冒頭で、イエス様の復活と永遠の命を信じる事を確認しましたが、信じていてもこの地上での最期を看取ることは、確かに悲しい事ですし、涙を流す事でその悲しみから一歩抜け出す事が出来るのも事実です。ヨセフは何カ月もの間、喪に服しました。父ヤコブとの再会から17年、エジプトの地で豊かな時間を過ごすことが出来て、神の約束通りにヤコブの最期を看取る事ができたヨセフ。そして父の遺言を守るべく2節、3節にあるようにヤコブの遺体をミイラにしました。遊牧の民であったイスラエル人にとってミイラにする事は大変珍しいものですが、ミイラにした理由はエジプト宗教とは全く関係なく,エジプトから父の遺体を、はるばるヘブロンのマクペラの洞穴まで運ぶために,腐敗を防ぐ必要があったからです。2節に「医者たちがミイラにした」と書いてあるのは、エジプトの呪術的な宗教儀式を避けるためであったのです。そして3節にあるように「エジプトの国をあげて70日間ヤコブのために泣いた」と記録されているのは、それほどまでにヤコブが慕われていたのです。
5節でヨセフは葬儀のためにパロに許可を得て故郷カナンの地へ上りました。7節から11節にあるように、ヤコブの葬儀のために同行した大勢の人達と、大規模で格式のある荘厳で立派な葬儀であったことが分かります。そして約束通りにマクペラの洞穴にある先祖の墓に葬って、すべての義務と責任を果たして、ヨセフと兄弟達はエジプトに戻って来たのです。
一般的に身内の亡き後に起こるいろいろな問題がありますが、ヨセフの兄弟達は父ヤコブの亡き後、権力のあるヨセフが仕返しをするのではないだろうか、と恐怖を抱きました。そこで兄弟達は16節、17節にあるように、まるで父ヤコブの遺言であるかのように作り話をして、赦しを乞いました。ヨセフは彼らの言葉を聞いて泣いたのです。どんな涙だと思いますか? ヨセフの心を、その真意を兄弟達は理解していなかったのだ、という残念な気持ちだったと思いませんか?
そんなヨセフの気持ちを汲み取らず、兄弟達は「命が助かるなら奴隷になります」とひれ伏して命乞いをしますが、ヨセフは19節から21節でこう言いました。リビングバイブル訳でみると「そんなに怖がらないでください。私だって神様ではないのですから、裁いたり、罰したりそんな大それたことなど出来ないし、確かにあの時はずいぶんひどいことをするものだと思いましたが、そのおかげで家族みんなが助かったではありませんか。悪意から出たことでも、神様はこのように良いことに役立てられるのです。私のような者が今日あるのもみな、神様の深いお考えがあってのことです。たくさんの人のいのちを救うためです。心配などしないでください。兄弟ではありませんか。今後のことは万事お任せください。悪いようにはしません。」ヨセフの言葉はとても優しく慰めに満ちていますね!
こうして同じ父から出た兄弟達は、様々な試練を通じて神の前にへりくだり、赦し合い、愛し合う者と変えられたのです。すべては偉大なる神のご計画と愛の中にあるのです。
私達はイエス様の十字架の愛で赦され、神の家族となりました。神の家族として、こうして一緒に礼拝し、交わりの中で霊的に成長していきます。ヨセフが兄弟達に優しい心で接したように、イエス様もいつも私達に優しく語り掛けてくださっています。マタイの福音書11章28節から30節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られます。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからです」
「安心感」がないと、人は問題行動を起こすようになります。もし強迫観念があると心にストレスを溜めるようになります。また、忠告を受け続けると過剰に反応するようになります。イエス様の優しい言葉は届いていますか? 優しい言葉を受けているのだから、私達もヨセフのように、またイエス様が愛して下さっているように、愛と配慮のある者でありたいと願います。
22節から26節は、ヨセフの晩年とその最期の時です。ヨセフは110歳まで生き、その晩年は充実したものでした。23節「ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキルの子らも生まれて、ヨセフのひざに抱かれた」とあります。誕生の時に 「ひざ」で受けるのは、自分のものであることを表明する行為です。子どもが多く与えられることは、聖書では祝福のしるしです。
ヨセフは兄弟たちにこう語っています。「神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、 イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。そのとき、あなたがたは私の遺体をここから 携え上ってください」この遺言がヨセフの信仰によってなされたものであると新約聖書のヘブル人への手紙11章22節は説明しています。「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました」
そこでヨセフの兄弟たちは、彼をミイラにし、棺に納ました。聖書の中で遺体をミイラにされたのは、ヤコブとヨセフだけです。ヨセフの願いが実現するのは、それから400年以上もたってからで、彼の遺体はシェケムの地に葬られることになります。イスラエルの民は、エジプトでの 400 年にわたる奴隷生活の間、ヨセフのミイラを見ながら約束の地に戻る事という希望を抱きけたことでしょう。そしてエジプトから解放の時にヨセフの亡骸を携えて約束の地に向かったのはモーセであり、相続の地へ葬ったのはモーセの死後リーダーシップをとったヨシュアでした。
ヘブル人への手紙11章13節から16節でアブラハム、イサク、ヤコブについてこう証言しています。リビングバイブル訳で紹介します「信仰に生きたこの人たちは、神に約束されたものを手にしてから死んだのではありません。しかし彼らは、約束のものが待っているのを望み見て、心から喜びました。この地上がほんとうの故郷ではなく、自分がほんのつかの間、滞在する旅人にすぎないことを自覚していたのです。信仰に生きたこの人たちは、神に約束されたものを手にしてから死んだのではありません。しかし彼らは、約束のものが待っているのを望み見て、心から喜びました。この地上がほんとうの故郷ではなく、自分がほんのつかの間、滞在する旅人にすぎないことを自覚していたのです。しかし彼らは、それには目もくれず、神が用意された天の都を一心に見つめていました。それで神は、彼らの神と呼ばれることを誇りとなさったのです」
私達はいつも天国への希望を置き、その信仰を自分だけにとどめておくのではなく、愛する家族に、友達に、身近な人に伝えていきたいと思います。
この時期に見るお勧めの映画は「パッション」ですね。何度観ても心の底から感動します。
この映画を作ったメル・ギブソン。以前も紹介しましたが、彼は大金持ち、超有名人で人気のある人でしたが、アル中、麻薬中毒、うつ病、自殺願望で、肉体的にも、精神的にも破綻してしまいました。
そんなギブソンに、先輩の俳優が、「君、聖書を読んだほうがいいよ」と勧めてくれたのです。なんとか苦しいところから立ち直りたい思いで、ギブソンは聖書を読みました。彼の心をとらえたのはイエス様が、鞭打たれ、血を流して、ゴルゴダの丘に十字架をかついで登らされ、そして、最後は十字架に付けられて殺されたことでした。
ギブソンはその聖書の場面を心の中で映像で観て「そうか、こういうことなのだ。イエスはこういう道をたどられたのだ」。それを心の映像で観ているうちに、なんと彼の病いがすっかり治ってしまったのです。いろいろ悪いことをして、罪の意識が相当あったと思うのですが、その罪の意識もなくなってしまった。
こうして、破綻と絶望の淵にいたメル・ギブソンは、人生を新しく再出発することができたのです。
聖書は私達に3つの要素を教えています。イエス・キリストの打ち傷によって、私たちのすべての病いは癒され、イエス・キリストの十字架の犠牲によって、私たちのすべての罪が赦されており、死からよみがえったイエス・キリストの復活によって、イエスの復活を信じる人の中に復活の命が流れ込んでいます。
創世記を約1年半かけて読み進めてきました。アブラハム、イサク、ヤコブの神は、私達の神です。すべてを造られた神によって、確かに私達は壮大な歴史の中に置かれ、導かれていることが分かります。ヨセフは遺言の中で、25節「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから」と言いました。直訳すると、「神は必ずあなたがたを訪れてくださるから」となります。ヨセフはこの表現を2度くり返しています。「神の訪れ」という希望は、旧約聖書と新約聖書をともに貫く大きなテーマです。そして、 神の訪れはメシアであるイエス様がこの地上に来られた時のことです。私達の罪を贖うために十字架に掛かり、三日目によみがえってくださったのです。私たちはそのお方を信じたのです。
キリストは生きておられます。すべては主の御手にあります!
主に守られて今日も励もうではありませんか!?