2016年8月6日 創世記29:31-35「すべてを知る神」池田 真也先生による
ある日 突然人々の脳内に直接何者かの声が語り掛けてきました。
「おめでとうございます。第1655回宝くじに地球が当選しました。よって地球の方々へのプレゼントとして1つだけ願いをかなえてあげましょう。10日後の10時ちょうどにその願いを頭の中で念じて下さい。最も多かった願いを叶えようと思います!」人々は集まり。願い事を何にするかを議論しました。ある人は「この世界から戦争を無くそう」と言い、ある者は「いや、病気を根絶するべきだ」と言いました。議論は白熱し、あっという間に運命の日になりました。皆がワクワク・ドキドキしながら願い事が何に決まったのかを待ちわびました。すると脳内に再び声がしました。「圧倒的多数で願い事は決まりました!」人々は驚き「いったい何になったのだろう・・・?」すると、脳内の声はこう言いました。「この地球を争いのない地にして欲しい。平和な星にして欲しいでした!」すると、その瞬間に全ての人がこの地上からいなくなってしまいました・・・。
この話の意味は「人間がこの地上に住んでいる限り、本当の平和が来る事はない」という事です。確かに地球上での全ての争いの根源は「人間」です。聖書は実に何度も繰り返し「人間からは良いものは生まれない」という事を教えてくれています。
「聖書」は「聖(きよい)書」と書きますが、聖い事ばかり書いてあるわけではありません。多くの人間ドラマ、争いや妬みがもちろん出てきます。
今、旧約聖書の世界を見てきていますが、ここでも騙したり、嘘をついたりしています。
妬み、嫉みもあります。今日の箇所の前の部分で、ヤコブは父イサクからアブラハム家に流れている祝福を頂きました。頂いたというか、長男エサウから奪ったとも言って良いでしょう。それを知った兄のエサウは烈火のごとく怒り。その怒りから逃れるようにしてヤコブはその地から出ていきました。
今日の箇所、1節にある通り、東の方に行くと、ある羊の群れに会いました。その方々にどこから来たのか聞くと、彼らはカランと答えました。それはヤコブの母リベカの出身地。
そしてもっと話をしていくと、なんと自分の母リベカの兄弟ラバンの群れであり、ラバンに事の次第を話し、滞在させてもらう事になったのです。感動の再会、主の計らいによって親類同士が出会うのでした。
私達の人生において神様は私達に必要なものを与えてくださいます。特に今日の箇所において神様は、ヤコブにとって必要な人を与えてくださったのです。ヤコブは旅の途中、孤独でした。孤独の中で神に出会いました。確かにヤコブは嘘をつきましたが、それは神の祝福を求めるためでした。神を第一に求めたヤコブを神様はお忘れにはならなかったのです。
孤独になったヤコブを神は励ましました。13節「ヤコブはラバンに事の次第を全て話した」それは自分の心を許せる存在だったからです。
私達の人生は出会いの連続です。私達も「この人に会わなければ、今の自分はいない」とか「この人がちょうど良い時にいてくれた」という経験をお持ちだと思います。神様は私達に必要な人間を与えてくださり、その人間関係を通じて神様は働かれるのです。
アメリカの教会でサドルバックチャーチという大きな教会があります。その教会の牧師、リック・ウォーレンは「健康な教会への鍵」という著書の中で、こう言っています。
健康な教会には5つの事が必要不可欠である。その5つは「交わり、弟子訓練、礼拝、奉仕、伝道」です。それぞれが教会において必要な要素を満たす事につながるからです。
教会は「交わり」を通して「温かさ」に成長する必要がある。
教会は「弟子訓練」を通して「深さ」に成長する必要がある。
教会は「礼拝」を通して「強さ」に成長する必要がある。
教会は「奉仕」を通して「広さ」に成長する必要がある。
教会は「伝道」を通して「大きさ」に成長する必要がある。
ここえ注目したいのが、交わりを通じて温かさに成長するという事です。
今日の箇所もそうでした。ヤコブはラバンという存在に自分の身の上を話しましたし、その時間がヤコブにとってどれほど大切な時間だったでしょうか!
私達も教会生活において、兄弟姉妹との交わりにおいて、心を打ち明ける事によってちょっと楽になったという事はよく聞きます。教会での人間関係を通じて癒されたりする事もあるでしょう。
あるクリスチャンの方の体験談を紹介します。
その方は小さい時から教会に通っていました。日本の高校を卒業したらアメリカの大学に行きたいと思い、アメリカの牧師先生ご夫妻の家にホームスティしていたのです。初めのころは英語もあまり話せずにコミュニケーションも難しいと感じ、牧師先生とはあまり話をしないで、奥様とはよく話していたそうです。奥様に打ち明けていた内容を牧師先生が聞いてからはいつもその方に「I love you. You are my son!」と言い続けてくれたのです。彼のお父さんはとても厳しい方で、あまり口を聞く事ができませんでした。思春期になり、お父さんに反抗し、あまり良い関係ではなかったので父親と同じ世代の男性と話をするのが苦手だったのです。牧師先生が「I love you. You are my son!」と言い続けてくれてからしばらく経つと、彼の心もだんだん解放されていったのです。しかし、学費の事で日本にいるお父さんに電話をしなくてはいけなかったので、恐る恐る電話をすると「学費がかかって大変だから、早く勉強を終わりにして戻ってきなさい」というものでした。彼の気持ちはまた暗くなってしまったのです。もうお父さんのために祈る事も出来ないとまで思いました。それを察した牧師先生が彼を抱きしめて言葉をかけてくれました。「本当に申し訳ない、今言った事を赦してほしい。私はあなたの父の代わりに言うね。本当に申し訳ない」それを聞いた彼の目からは涙がポロポロと落ちてきました。その時から彼は父親のために、また親子の関係の回復のために毎日毎日祈りました。彼の帰国後は、お父さんとの関係も修復し、良き関係を築いています。神の癒しが起きたのです。
箴言17章17節「互いが苦しみや痛みを分け合うことを通して、助け合うのです」
十字架を見て下さい。縦と横に木があります。縦は自分と神との関係、横は兄弟姉妹との関係を思う事が出来ます。
14節以降から学べる事は、私達の人生の歩みにおいて、私達はただ神の導きに信頼するという事です。
叔父のラバンの元でヤコブは仕えていたことがわかります。15節でラバンがヤコブに「どういう報酬が欲しいのか」と尋ねます。ヤコブは「ラケルをください。そのラケルのために7年間あなたに仕えます」と言ったのです。ラバンには長女のレア、次女のラケルという二人の娘がいました。その妹が欲しかったのです。その後ヤコブは7年間ラバンに仕えました。7年後いざラケルを嫁にもらうという時に、一夜を過ごしたのはなんと姉のレア。ヤコブは混乱しラバンに「なぜこのようなことをしたのか?」と聞いたのです。すると26節で「この地方では長女よりも先に下の妹を嫁がせることはしないのだ」そして「下の娘もあげましょう。でもまた私に7年間仕えなさい」と言ったのです。
なんともメチャクチャな話ですが、ヤコブは28節をみると「待つ」という選択をしたのです。合計14年間待ったヤコブ、これはヤコブの信仰を教えるものです。ヤコブは嘘をついてまで、神の祝福を欲しかった人物ですから、霊的な祝福に目を向けて、神に期待したのです。「神が約束してくれるのであれば、必ず手に入る。ただ神に委ねよう」という信仰です。
どうしてこの状況になったのか分からない、けれどそこに神のご計画があるのだろう、そう信じたのです。だから待つ事が出来たのです。そして神の祝福は妻が与えられること以上のものでした。
レアとラケルを妻としたヤコブは、そこに仕える女奴隷も与えられました。その4人の女性から12人の息子達が生まれ、12人の子孫が後にイスラエルの12部族となり、信仰の民、約束の民として祝福を継承し、増え広がっていったのです。
私達の信仰生活には「待つ」「忍耐する」という時間が必要です。今の世の中をみてください。ファーストフード、時短レシピ、とにかく時間をかけずに何かしたいというのは時代の流れの一つかもしれません。「欲しい時に欲しいものを得たい」「相手が欲しいと思う時に、欲しいものを提供したい」このような世の中にあって、忍耐が育まれるはずがありません。
アメリカのクリスチャン団体フォーカスオンザファミリーの代表を務めるジェームス・ドブソン博士は次のように言っています。「子供の欲しいものをすぐに与えることで、子供が失ってしまうものが2つあります。それは感謝するという事と喜びです。すぐに手に入ってしまうと、感謝の念が失われていってしまいます。だからものを粗末にする子供達が年々増加しています。それはものだけでなく命をも大切にしなくなってきています。もう1つは喜びです。物事を待ってから何かを得ると、喜びも倍増します。待つ事をストレスに思うのではなく。待つ事は後の喜びだという事を知る事は大切なのです」
これは子供だけでなく、私達大人にもあてはまります。最近は大人も待つ事が難しくなっているのではないでしょうか? 私達の信仰生活に照らし合わせて、神が待つ事を通して、神に感謝し、喜びを与えてくれるという事を覚えましょう。
伝道者の書3章11節「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」とあるように、神には最善の時があるのです。私達の時ではなく神の最善の時です。
ヤコブはこの霊的な目が養われていました。ヤコブは自分の思いを突きつけるのではなく、
神の時を待ったのです。そこに神の祝福が流れるのです。
ジェームス・カーチス・ヘップバーン宣教師をご存知でしょうか? ヘボン宣教師という名であれば、知っている方もおられるかもしれません。ヘボン式ローマ字を作った方です。
彼は宣教師として日本に来ました。「ヘップバーン」と聞いた日本人が聞き間違えて「ヘボン」と呼ばれるようになったそうです。
彼は1859年に医療宣教師として来日しました。幼い頃から信仰を持っていた彼は医学を学び、外国語を学び、そして開業医となりましたが、神は彼にビジョンを与えました。
「医師がいなくて唯一の神を知らない国で宣教したい」という事でした。1841年にアジアに医療宣教に出かけましたが、世界情勢や伝染病の危険があり、1846年にアメリカに戻ります。しかし彼の心はアジアでの宣教をあきらめていませんでした。
時が経ち、ある時クリスチャンも医者も少ない日本という国がアメリカとつながりを持ったことを聞いて、1859年に来日します。その時44歳の彼はまだキリシタン禁止令があったので自由に宣教は出来ませんでしたが、無料で病人を診る代わりに聖書の話をしていきました。それから14年経ちキリシタン禁止令が解かれ、神奈川県特に横浜で宣教をしていったのです。横浜支路教会の基礎を作り、和英辞典を作製し、ヘボン式ローマ字を開発、明治学院大学やフェリス女学院の礎となる「ヘボン塾」を通じて宣教したのです。
彼を通じて神の御業が広がったのも、神の時を待ったからです。
彼は自伝にこう残しています。「イエスも言われた『明日の事を思い煩うな。明日は明日が思い煩う』ですから自分の憂慮よりももっと良い事があると望んでやっていかなくてはなりません」
神の時を待つ、神の最善を思う、そうすれば神はもっと良い事をなさるのでう。
私達も人生において神の最善を祈り求めていきましょう。