2016年10月22日創世記35:16-29「悲しみの中であっても」

 

小林一茶の『おらが春』の中の句に「露の世は露の世ながらさりながら」という俳句があります。一茶が五十六歳の時に長女が生まれ、愛する我が娘が翌年の六月に病気で亡くなりました。その悲しみの極限で詠んだ俳句です。

 

今日の聖書箇所は、ヤコブの悲しみの極み、愛する妻ラケルが出産と同時に亡くなる、そして故郷を出てから30年以上たって、父イサクとの再会と死別。その間に長男ルベンの起こす性的な問題。私達の人生の縮図をここに見るような気がします。

 

ヤコブ達は神の「さあ、立ち上がりなさい!」という声に従ってシェケムを出て、ベテルへ向かい、そこで祭壇を築いて住んでいましたが、ベテルを出る事になりました。新しい名前「イスラエル」と共に新たに祝福と使命を与えられてから、どれ位の時間が経ったのかは分かりませんが、彼らはベテルを後にし、また旅立ちます。ラケルが妊娠しており、臨月であるにも拘らず旅立つのですから、それなりの切迫した理由があるのだと思います。エフラテ、今のベツレヘムに向かいました。その時に妻ラケルが産気付き、ひどい陣痛で苦しんだのです。創世記30章24節ラケルがヨセフを産んだ時「主がもうひとりの子を私に加えてくださるように」と祈りました。その祈りがきかれる時が来たのです。その旅の途上でヤコブの最愛の妻ラケルは非常な難産の末に男の子を産みました。その時、助産婦は彼女に、こう声をかけたのです。「心配ありません。今度も男の子ですよ。」この助産婦の言葉には深い理由があります。ご存知の通りラケルにはレアという姉がおり、その姉はヤコブの愛を受けることはありませんでしたが、神の顧みを受け、ヤコブとの間に六人の男の子を産んでいました。その事実はなかなか子供が与えられないラケルにとって耐え難い悲しみであり、屈辱でした。助産婦はそのことを気遣って、ラケルにこのような言葉をかけたのです。

ヤコブにとって12番目の男の子が、既にかなり高齢になっていたであろうラケル自身から産まれたのです。しかし、とても難産でラケル自身命の危険にさらされました。そしてまさにラケルは出産と同時に、もう息を引き取ろうと意識もうろうとしている中で、生まれてきた男の子に「ベニ・オニ・私の苦しみの子」を名付けました。出産の苦しみ、死の苦しみ、愛する夫、子供達を残していく苦しみ、母としての役割を果たせない苦しみ、ラケルはその苦しみを抱えながら息を引き取っていくのです。しかし、ヤコブはその苦しみゆえに命を授かった息子に「ベニヤミン・右手の子、力ある子、祝福された子」と名付けました。同時に愛するラケルが亡くなり、彼女を葬る時、どれほどの悲しみをもって葬ったのか、ラケルと結婚したくて、したくて、たまらないほど愛して結ばれた妻が、先に行く・・・・・

ヤコブの気持ちは聖書に書かれていませんが、エフラテ現在のベツレヘムへの道の途中に葬り、石の柱を立て、気持ちを整理して、21節にあるように、イエスラエルは旅を続け、ミグダル・エデルのかなたに天幕を張りました。ベツレヘムの郊外にある小さな町 「ミグダル・エデル「ミグダル」は「塔、やぐら、とりで」を意味し、「エデル」は「家畜や羊の群れ」を意味します。つまり、「ミグダル・エデル」とは「羊などの群れを管理する塔」のことです。ミグダル・エデルのあるこのベツレヘムの辺りは、ヤコブの時代から、羊の世話をする場所として知られていたのです。救い主がお生まれになるという預言が与えられる前から、ベツレへムは特別な場所として、神が確保されていた所だと、わかります。後に罪の贖いのための捧げものを捧げるようになりますが、捧げものとなる羊は「傷のない羊」でなければなりませんでした。この事については出エジプト記29章やレビ記に詳しく書かれていますが、人の罪の贖いとして「いけにえ」を捧げるようになるのはモーセがシナイ山で十戒を与えられた後からです。品質の良い、良く管理されて育てられた最高の羊が必要とされました。そうした羊を育てる場所がベツレヘム近郊にあったのです。「ミグダル・エデル」はそのような「いけにえ」となる最も良い羊を育てる場所だったのです。そう考えると、イエス様がお生まれになる地ベツレヘムへの道の途中にラケルが葬られているという事も神様のご計画でしょう。

イエス様がその捧げものとして、この地上に来られたのです。私達はクリスマスを12月にお祝いしますが、太陽暦の影響やローマ帝国の支配下にあった時代に12月にイエス様のご降誕をお祝いするようになりました。羊飼いたちが夜通し起きて羊の番が出来たのは寒くならい時期ですし、ちょうどイスラエルの3大祭りのひとつ「仮庵の祭り」が行われるのは10月半ばで、今年は10月17、18日でした。「仮庵の祭り」については旧約師依処のレビ記23章34-44節に詳しく書かれていますので、お時間のある時にお読み頂きたいと思います。

「仮庵の祭り」は、イスラエル人が出エジプト後、40年間荒野でテント暮らしをし、神様の恵みと守りの中にあった事を覚え、記念する祭りで、同時に私達人間は肉体という「仮の住まい」に70~90年間住むだけの存在であり、主の恵みなしには生きていくことはできないということを覚える祭りでもあります。さらに、仮庵は、主イエスが地上に来られることを示す祭りでもあります。ヨハネの福音書1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」この「住まわれた」は、「仮庵となられた」ということを意味します。神はメシアであるイエスを地上に送って下さる事により、神と人との和解をもたらされました。イエス様が来られたのは神との和解のため、私達の罪の贖いのためにほふられる小羊として、そして王の王、救い主として、です。

 

ベツレヘムへの道の途中で葬られたラケルを引用して神の言葉を預かった預言者エレミヤはこう言いました。エレミヤ書31章15節「主はこう仰せられる。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている」ラケルが泣いているというのは、子と別れなければいけないという悲しみ、イスラエルが神から離れ、それによってバビロンに攻められ捕囚されていく、引き裂かれていく悲しみ。地名である「ラマ」は、エルサレムの北にある町ですが、バビロンがユダの民を捕え移す時にまずラマに連れて行き、そこからバビロンに移しました。そこでイスラエルの子らがバビロンに引かれていくその悲しみを、母が子を失う悲しみになぞらえているのです。また更にはイエス様のご降誕を阻止し、「ヘロデ王の策略で2歳以下の男の子を皆殺しせよ」という命令に対しての嘆きとしてマタイの福音書に引用されています。

 このようにラケルはイスラエル12部族の内のヨセフ族、ベニヤミン族の母として記憶され、ベツレヘムへの道の途中である「ミグダル・エデル」に葬られました。

 

 さてヤコブにとって、そのような悲しみが少し落ち着いた頃、更にヤコブの上に大きな問題が起こります。22節「イスラエルがその地に住んでいたころ、ルベンは父のそばめビルハのところに行って、これと寝た。イスラエルはこのことを聞いた」

長男ルベンがスキャンダルな事件を起こすのです。ヤコブの亡き妻ラケルの女奴隷ビルハを寝取るのです。これはただ単にルベンが自分の欲求を満たすためにそうしたというより、父ヤコブの権威を奪おうとした行為です。年老いて弱くなった父ヤコブにとってかわって

一族の長になろうとした謀反の行為です。その事を聞いた父親については「このことを聞いた」とだけ記されてあるのみです。深い悲しみと憤りを抱えた父イスラエルは臨終のときに

ルベンに向かって言葉を残しました。創世記49章3節4節「ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ」後にルベンは長子の権利を失い、その権利はヨセフに与えられるのです。

 

次いで23節24節に母親とその子供たちの名前のリストが書かれているのは、主の約束である子孫を増やすにつながっていくのです。

 

そして27節から29節はヤコブが父イサクと30年以上ぶりの再会と父イサクの死です。かつてアブラハムをイサクとイシュマエルが葬ったように、イサクを双子の兄弟であり距離を置いていたエサウとヤコブが協力して葬ります。

 

 35章読んできましたが、この章はおもにヤコブの大切な身内の死を取り扱いながら、その悲しみの中にあっても、なお尽きない神の憐れみ、慰めを読み取る事が出来ます。

 

私達にとって死の向こうにある希望とは何でしょうか?

パウロはピリピ人への手紙3章20節でこう言いました。「私達の国籍は天にあります」

私達に天を思う心を神様は備えてくださいました。今はこの地上で生きていますが、イエス様を信じる者の国籍は天国です。天国へ帰ったときにこの朽ちる体は朽ちない体に変えられます。昨日より今日はそれに近づいています。いつもその希望を持つ事によって日々の歩みが変わってきます。思いは行動に現れます。

例えば、私達が今や毎日お世話になっているインターネット。特にgoogle。ヤフーユーザーよりもgoogleを使ってるユーザーが多いそうです。このgoogleの意味をご存知でしょうか? 数学用語で1のあとに0が100個付く数字を表わすそうです。Google 創立者ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンはスタンフォード大学の博士課程在学中に大きなビジョンを掲げ、確信と勇気をもって実行し、google という社名がビジョンそのもので、今に至っているのです。

 

 私達が立てるべき目標はなんでしょうか? 今より快適なより良い生活でしょうか?

それも良いでしょう。しかし、この地上での生涯がいつか終わり永遠に天国で生きるために

準備することは、目標とするべきことは魂の霊的成長です。神様に大胆に求めて生きたいと思います。

 最後にクリスチャンの方を紹介します。美味しいワインやジャムのメーカブランドで

サンクゼール、ご存知の方もいらっしゃると思います。信州の三水村・(斑尾(まだらお)高原近く)にお住まいの久世さんご夫妻がスタートしたブランドです。今や有名な人気のあるブランドになりましたが、それまでの道のりは厳しかったのです。結婚して40年のお二人。結婚当初はペンションを経営の傍ら、手作りのジャムをスキー場で販売し好評だったので、ペンションをやめて、資本金10万円でジャムづくり、ワイン作りを始めました。初めは順調でしたが資金繰りに困り、倒産の危機に直面し、ペンションを売却。そしてジャムづくりとワインについて学びたい、そして忙しくて行っていなかった新婚旅行もかねてフランスの田舎へ行くと、そこで教会に立ち寄りイエス様に出会います。帰国後、長野にある教会にいうようになり、信じて洗礼を受け、なによりも神を第1に置き、日曜日には会社の一室で家庭礼拝を持つようになり、聖書を会社の経営理念の土台とし再出発。そして今や自然に、体にやさしい食のブランドとして定着しました。奥様のまゆみさんはサンクゼールチャペルの牧師をしていらっしゃいます。経営を支える聖書の言葉として久世さんは2つ掲げています。

ヨハネ15:5 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」

ローマ5:3-5「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し忍耐が練られた品性を生み出し練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 

 

 今日の聖書箇所から「悲しみの中であっても」つきない神の慰め、恵みを学びました。

「今はそういう状況ではないから神の助けはいらない」ではなく、平安の中にいるからこそ神に感謝をささげる者でありたいと願います。私たちがイエス・キリストを信じて、共に歩むということは、天地創造の神の偉大な力、無限の知恵に支えられて歩むことなのです。  

パウロはこう言いました。ピリピ人への手紙4章13節「私は私を強くしてくださった方によって、どんなことでもできるのです」

 

お祈りします。