20170805 マタイ521-26「神に喜ばれる供え物」

 

 今日も御言葉に耳を傾けて、主の教えを喜び、その恵みに与りたいと思います。

 

第1サムエル記16章7節「人はうわべを見るが、主は心を見る」とありますが、主は心を見るが、人はうわべを見ます。人の第1印象を決める要素はなんだと思いますか?またその割合はどの位だと思いますか? 視覚、見た目55%、声38%、言葉、話し方7%、見た目は半分以上を占めていますし、確かにキチンとしている人の話しは、キチンと聞こうと思いますね。ですから、主は心を見るから、外見はどうでも良いという事はありませんが、外見も心も主の栄光を現すように心がけ、霊的にまた人格的に成長したいと思います。

 

さて、前回お読みしました聖書箇所17節「わたしが来たのは律法や預言者を通じて語られた神の言葉を成就するために来たのだ」とおっしゃったイエス様が、今度は具体的に生活に適応するように教えて下さっている箇所です。20節には「まことに、あなたがたに告げます」つまり「その真意をあなたがたに告げます。表面だけの良い行いをするのではなく、イエス様を信じる事によって義とされた者は、天の御国で偉大な者です」とイエス様はおっしゃいました。

場合によって、神様に信頼して生きるよりも、自分はこれで正しい、自分は自分でやっていけると思いがちですし、神様との関係を生きるという事を言われても、なかなか理解しにくいかもしれません。イエス様は天の父なる神が私達に与えた律法は、その愛のご性質のゆえに私達に与えてくださったものです。主イエス様の心との一致を求め、聖霊様の助けを頂きながら、創造主なる神様が私達人間をつくった時に「さあ、我々の姿に似せて作ろう」とおっしゃったけれど、私達の中に「神様はいらない」と言ってしまう罪の問題がありますが、それはイエス様の十字架を信じる事によってその罪の問題は解決したのです。そして聖霊様との親しい関係の中でこそ、主イエス様の似姿に変えて頂ける祝福が与えられるのだ、と教えているのです。

今日の箇所はモーセの十戒の中の第6番目「人を殺してはならない」をヘブル語の原語から考えてみると、「あなたは決して殺さない」となります。そのニュアンスは「あなたは、わたしの愛する民であるから殺人などしない。するはずがない。どうして殺すようなことをするだろうか」という意味です。「人を殺してはならない」という命令より、むしろ神様が選んだ民に対し信頼を込めた愛の言葉です。

ユダヤ人律法学者のパリサイ人達は、この「殺してはならない」という戒めに対し「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」という、「殺人」の意味に限定した解釈をしました。それに対し、イエス様の解釈は「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」というものでした。ゲヘナとは当時、エルサレムの城壁の外にある、深くて狭い谷底のゴミ捨て場の事で、ごみを処分するために火が燃やされ続け、悪臭を放っており、処刑された罪人の体や、ふさわしい埋葬をされなかった人体が埋められる場所でもありました。ですから、イエス様の話を聞いて、ゲヘナに投げ込まれるとはそのようなひどい場所、つまり「地獄」がどんなところかイメージがついたのです。

「人を殺してはいけない」についてのイエス様の解釈は「兄弟に対して腹を立てること」であり、「怒りを心の中に抱くことはすでに殺人の罪に等しいこと」つまり「根に持つ怒り、忘れようとしない怒り、和解しようとしない怒り、復讐しようとする怒りの感情を抱くだけで、殺人と同じだ」とおっしゃっているのです。人類初めて起きた殺人事件は創世記に出てきたアベルとカインの兄弟殺人事件ですが、その息子達を育てる責任のあったアダムとイブも神様からずれた時から、互いに責任転嫁をしましたし、アダムは神様にうらみつらみを言ったのです。ですから、怒りの感情を、また「相手が謝らなければ、こっちも謝らないわ!」と言ってしまいがちな私達の弱さを、どう取り扱うべきなのか聖書が教えています。エペソ人への手紙4章26節-27節「怒っても罪を犯してはいけません。日が暮れるまで憤ったままではいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」

エペソ人への手紙4章31節「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい」

ヤコブへの手紙1章19節から20節「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません」

怒りの感情から生まれるのは、破壊的なことしかありません。人間関係を壊すだけではなく、自分自身も壊れていきます。ですから、怒りの感情が込み上げてきたら、どうしてそうなのか考えて、直接対話で解決するように、イエス様は教えてくださっているのです。なぜなら、イエス様こそ私達と神様の間をとりもつために十字架についてくださったお方ですから、イエス様が仲介者となってくださるのです。

 

 パウロはローマ人への手紙3章10節から12節で「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」と詩篇53篇を引用し、全ての人は神の前に罪人であると、だからローマ人への手紙3章22節で「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」と断言しています。

人を「ばか者」と言うことは人の人格を傷つけるだけでなく、神がひとりひとりを創られたことに対しての侮辱と同じです。それによって人を傷つける言葉を発する者に対して、神の厳しいさばきが余儀なくされるのです。このような基準で神の前で裁かれるとしたなら、だれも天の御国に入る者はいなくなりますね。だからこそ、「キリストの義」をいただく必要性があるのです。相手に対して何かを言いたくなる前に、自分は何者なのかを考えてから発言できたら、平和な世の中になると思いませんか?

 

「殺してはならない」という教えに対して、より積極的な意味として「和解、仲直り」を早くするように今日の箇所の23節から26節で、イエス様は教えています。

23節の「だから」と訳された接続詞は、前に書かれているように、自分が発言をしたことで人を傷つけ、そのことで兄弟に反感を持たれている事を思い出したなら、まず礼拝するよりも前に、相手のところに行って、仲直りをしなさいという意味ですが、自分が相手を傷つけている事に気が付かない人もいるかもしれませんし、また人は心の状態で言われた事をどう受け止めるかで傷つく事もあるかもしれません。互いに愛し合い、赦し合う事を神は私達に求めていのです。そこに神の御国があるのです。

第1ヨハネの手紙4章20節「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」とあるように、私達はイエス様から赦され、愛されている者である事に立ち返って、積極的に人間関係の和解を求めて歩むことですし、それを優先する事を神様は望んでおられるのです。誰かを赦せないという心をずっともったままの状態は、実はその相手が自分の心を支配しているという事になります。私達の心を何に支配されているのか、確認してみましょう。

 

 詩篇5116節から17節「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」

「砕かれた心」というのは、ただ罪悪感に責められる心のことではなく、神の前でへりくだった心のことを指します。なぜなら、神が望まれているのは、私たちが道徳的罪悪感を体験することではなく、神との関係が回復される事であり、自分の楽しみのために神がいるのではなく、神の喜びのために自分が存在することを認める心です。

また、自分の計画を前進させるために自分が神を選んだのではなく、神の計画を前進するために神が私たちを選ばれたことを思い起こす心です。

「悔いた心」とは、自分のプライドよりも、神の栄光が大切であることを謙虚に受け入れた心のことです。

 

イエス様の愛は、人の心から独善や高慢を取り除いてくださいます。ご自分のいのちを与えるという最強の方法で、イエス様はそれができると示されました。

 

 

 今日の聖書箇所を通じて、主との深い交わり、自分自身の回復、そして、もし人間関係で回復が必要であればそれを求めて、神様の喜ばれる供え物となりたいと思います。