20170701マタイ412-17「神に心を向けなさい」

 

 最近のニュースで、皆さんの興味関心事はなんでしょうか? 34歳の若さで亡くなった小林麻央さんの事、将棋の藤井くんの事、いろいろありますが、今日関心をもったニュースは次の瞬間、違うニュースへと変わってしまいます。だからこそ、いつでも変わらない神の言葉に心を向けていく事に大切さを見出すのだと思います。

 

先週は大角 詩音先生より「神のみ言葉に立つ」と題してメッセージをいただきました。私達も毎回礼拝の中で「試みに会わせず、悪からお救いください」と祈りますが、「試み」つまり「誘惑」との戦いに勝利するための秘訣は3つあり、1つは、神様に対しての良いイメージを持ち続ける事、つまり神は良いお方、愛の方、罪責感を喜ばない方であることを受け止め続ける事。2つ目は、十字架によって完了していますから、私たちはもう罪に定められないのだという健全なイメージを持つべきであるという事。3つ目は、聖霊さまとの親しい交わりによってイエス様のように変えられているからこそ、健全な人間関係を築いていく、つまり互いに裁き合わないという事です。他人の不足を見て裁く心が芽生えてきたら、Iコリント434節のみ言葉「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です」に心を向ける事によって、人を裁きたい誘惑から守られるのです。確かに人間関係は厄介ですし、我慢の限度があります。だから正直にその心を主に打ち明けて、自分ではなく主に取り扱ってもらう、介入して頂く事に最善の解決がある事を信じて祈る事というメッセージを受け取りました。

 

さて、今日は「神に心を向ける」というテーマで、イエス様が私達ひとりひとりにどんな事を教えてくださっているのか、心の耳を傾けたいと思います。

 

今日の箇所の12節から14節をリビングバイブル訳で読んだ方がわかりやすいので、お読みします。「イエスはヨハネが捕らえられたと聞くと、ユダヤを去って、ガリラヤのナザレにお帰りになり、まもなくゼブルンとナフタリに近い、ガリラヤ湖畔のカペナウムに移られました。これはイザヤ91節から2節の預言が実現するためでした」

「イエス様はヨハネが捕らえられたと聞くと」となっていますが、罪の赦しへと至るバプテスマを解いていたバプテスマのヨハネ、「心の向きを神に向けなさい、神は贖いを用意してくださっています。ただ心の向きを神に向けて、神と共に歩みなさい」とただただ心から沸き上がる福音を伝えたい、ひとりでも多くの方にこの救いの喜びに、平安に与ってもらいたい、その思いで洗礼を授けていました。そのヨハネがなぜ捕らえられたのかというと、当時ガリラヤ地方とペレヤ地方を治めていたヘロデ・アンティパス、彼はかつて2歳以下の男の子を皆殺しにしろと命じたヘロデ大王の2番目の息子です。(ここではアンティパスをヘロデを呼びましょう)ヘロデの弟のピリポの妻ヘロデヤと密通し、ついにアンティパスは正妻を追い出してピリポの妻ヘロデヤを横取りしたのです。それについてバプテスマのヨハネがその行為が不法であると追及したので、アンティパスはヨハネを捕えて牢に入れ、殺そうとしたのです。

悔い改めを説いていたバプテスマのヨハネが捕らえられたことは、神様の時が来た、つまりイエス様が宣教の活動を始める時が来たのです。そのことをマタイはイザヤ書9章1節2節の成就であると示すことで、ユダヤ人達がイエス・キリストは確かに旧約聖書に預言されているメシアである事、そのお方がここにおられるのだ、と言いたかったのです。イエス様が宣教活動をされたのは30歳になってからです。それはユダヤ人の大切にしている律法によれば、祭司として認められるのは30歳からとなっており、それに従ったのです。

イエス様がユダヤ地方からガリラヤへ拠点を移されたのにも理由があります。当時ユダヤ地方に住む人からは「異邦人のガリラヤ」と軽蔑されるくらい、偶像崇拝が教えられて真の神から離れていた状態にありました。なぜかというと、ガリラヤ地方は紀元前8世紀にアッシリヤに侵略されて、ユダヤ人達は捕虜として連れていかれ、ガリラヤ地方をアッシリア人が植民地化したのです。そのような歴史背景がありますからイザヤが言ったように「暗闇の中に座って、死の地と死の影に座っていた人々」の状態にあったガリラヤ地方の人々にとって、イエス様はまさに光であり希望となったのです。また、ガリラヤ地方のカペナウムは国際的な交易の拠点だったので、多くの人が出入りする、とても栄えていた場所でした。イエス様が宣教するためには、大きな役割を果たす場所でもあったのです。

17節「この時からイエス様は宣教活動を始めて『悔い改めて神に立ち返りなさい、神の御国が近づいているから』と言われた」イエス様はひとりとして滅びる事がなく、神を信じ光の中を歩む者であり、永遠の命への希望と喜びを見出してほしいという天の父なる神の思いを、宣べ伝えられたのです。

17節「悔い改めなさい」というイエス様の命令の言葉をギリシア語では「メタノエオー」ヘブル語は「帰る、留まる」を意味する「シューヴ」です。どこに向かって帰るのかと言えば、神に向かって帰ることです。そこには、罪を悔いるとか、懺悔する、反省するなどの条件は一切ありません。ただただ神に「向き直る」ことが求められています。「悔い改める」という言葉を正しく理解し、神の恵みを十分味わいたいと思います。

 

「悔い改めなさい」現在命令形となっていて、一回だけ自覚的な堅い決心ではなく、何度も何度も繰り返して、神に向かって立ち帰ること、向き直ることを意味しています。これをヘブル語の「シューヴ」で考えると、神に向きを変えて、神にとどまり続けることを通して理解できるようになって、整えられてくるという意味なのです。ですから、いつも礼拝の終わりの祝福の祈り、第2コリント人への手紙1313節から言葉「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊様との親しい交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」を祈らせ頂いているのは、神の愛と恵みの中に留まり続け、聖霊様との親しい交わりが豊かにあるようにイエス様が願っておられるのです。

今日のテーマであり、キーフレーズ「悔い改めて神に立ち返りなさい、神の御国が近づいているから」を私達に適応して、さらに考えてみましょう。

私たちは旧約聖書も新約聖書も読む事が自由に出来るという恵みが与えられています。

そして今、私達が生かされている時代は教会の時代、聖霊の時代と言われますし、同時に終わりの時代とも言われます。教会の時代はいつから始まったのでしょうか? 使徒の働き2章にあるペンテコステに起きた聖霊が下られた時、1世紀半ばの頃から現在に至っています。そして。この教会の時代、聖霊の時代はいつ終わるのでしょうか? イエス様を自分の救い主であると信じている者は、イエス様と共に空中に挙げられる、その時です。このことを神学用語で携挙と言いますが、その時はいつなのかはわかりません。天の父なる神のみがご存知です。しかし、携挙はいつ起きても良い時代に私達は生きています。

 

イエス様が最初にこの地上に来られることは旧約に預言されており、それは既に最初のクリリスマスの時に起こりました。もう一度イエス様が来られる預言は聖書の中にそれ以上に書かれています。旧約聖書には1527ヶ所、新約聖書に319ヶ所です。ですからイエス様がもう一度この地上に戻って来られることは確かに起こる事です。その前に、イエス様が空中まで下りて来られ、クリスチャンが天に引き上げられ、その後地上での7年の大患難時代を経て、イエス様は先に天にあげられたクリスチャンと共に地上に戻ってこられるのです。その事は私達にとって大きな希望です。だから私達はイエス様の救いを時が良くても悪くても、伝え続ける使命があるのです。

福音を伝えることに生涯を費やしたパウロは第1コリント118節から21節の中で、こう言いました。「十字架のことば(福音)は、滅びに至る人々には、愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。---神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」私達ひとりひとりに託されている事は、イエス様の救い、その愛を伝える事です。私達のような者に救いの御言葉を託したのは、だれひとり滅びる事がないように、という天の父なる神様の思いがあるからです。

第2ペテロの手紙39節「主はある人達が遅いと考えているように約束を果たすのが遅いのでは決してない。ただ誰も亡びることを望まず、すべて人が悔い改めに到ることを望み、全ての人に対し寛大であるのです」

いつも聖霊様との親しい交わりを持ち続け、主の愛を証しする者でありたいと思います。

 

神の愛によって人生を変えられて、信仰を持たれた方を紹介します。6月に峰町キリスト教会に来てくださいました、オペラ歌手でありシャロンゴスペルチャーチの牧師、稲垣俊也さんです。19歳の時に信仰を持ち、洗礼を受け、その後東京芸術大学を卒業。オペラ歌手として、また教会音楽家として常に第一線で活躍されておられましたが、東日本大震災後、新たに東京基督教大学の神学部で学び、牧師となりました。現在は、牧師、オペラ歌手、大学講師の3役を務めていらっしゃいます。

「オペラの楽曲の中には、神に語り掛ける言葉がたくさん出てくるので、作品を理解する上で神を理解することは切っても切れないもの。それを頭で理解するだけなく、信仰のうちに『感じる』ことができるようになったことは大きな神の恵みだと思う」と、信仰をもった後の音楽観をこのように述べていらっしゃいます。

「演奏活動において、聴衆の受け取り方は人それぞれ違っています。その意味で、私は人間の限界を知りつつ、その中で誰かの心に深く思いが届くとすれば、神様の深い恵み、聖霊の働きによるものだと思います」「命は尊い授かりものであり『生きる』ことには深い意味と意義が与えられており、信仰とは、命を与え給う神に感謝し、神を喜ぶこと」とおっしゃっています。「コンサートにいらっしゃる聴衆に対しても、イエスの眼差しをもってお一人お一人を見続けずにはいられない気持ちになっていきます。音楽には、神の力をもって人々を互いに関わらせるという聖なる力があるのです。宗教音楽でないと神を賛美できないということではなく、もっと開かれた宗教観が必要かと思います。日常生活において深く沁み込み受け継がれてきた音楽も切り離すことなく、つなげていく使命があるのではないでしょうか。神様は、聖書の言葉を頂点にして、生活世界のあらゆる出来事を通して、ご自身を自由に表すのです。神様が自由にお働きになれる場所を、教会だけにとどめておくのではなく、可能性を外の世界に見いだしていくことが必要です。神様のお働きになる機会は、教会だけではなく、様々な活動、働きなど、あらゆる事を通して神様は自由にご自身を表します。ですから、牧師になってもオペラ歌手。世間とのつながりを断つことは、神のお働きを妨げることになるのではないかと思い、生活の中に我々の方から出向いていくことが、福音を伝える者の役目であり、音楽を通じて神と人が結び合わさるように願っています」と自身の役割を語っておられました。

 

 私達も家庭において、職場や地域においても同じ役割があるはずです。たとえ、自分なんていらない存在だと思ったとしても、神様は決して見放す事はありません。

 

神の御国が近づいている事が確かな時代、イエス様の御心を知り、心を一つにして、歩みたいと思います。