2017年6月17日 マタイ3:13-17「洗礼の模範を示すイエス様」
先週は、皆様のおかげで、潮田佳美さん(狐塚さんになりました)の結婚式に参加させて頂けたことを感謝します。結婚式、いいですね~。イエス様との関係、それを土台にした人間関係を考える良きチャンスでもありました。なぜなら、信じている私達を性別関係なくイエス様の花嫁としてくだるのですから。キリストを一つとされる深い交わりの喜び、その恵みを忘れてはならないなぁと思った日でしたし、結婚式の誓いで「病めるときも、いかなる時も愛しますか?」という質問に結婚式では「はい、愛します」と誓うのに、ちょっと時間が経つと「もう無理です~」となりがちな私達でさえ、主なるイエス様はそんな私達を愛して下さっているのです。
さて、前回は鈴木孝紀先生より「叫ぶバプテスマのヨハネ」と題してメッセージを頂きましたが、バプテスマのヨハネが何を叫んでいたのか、こらえきれない感情が溢れて出る大きな声で「神様の方に心を向けなさい」「後から来られるメシア・救い主について」を叫び、どれほどの愛で神様が私達を愛してくださっているのかを、人々に知らせていた事を学んだと思います。一週間を振り返り、天の父なる神様に心を向けて、親しい交わりを持てたでしょうか?
たまにTVで「芸能人ものまね大会」を見る事があります。上手にものまねをやっていると後ろの方からそっとわからないようにご本人登場で、場内が沸き上がり、ものまねをしている芸能人がわぁとビックリするシーンがありますね。今日は、そんな場面です。
13節「イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた」 この時までずっとご自身を明かさずに、イエス様はガリラヤに大工であるヨセフの息子として30年の日常生活を送られていたのです。
人が大勢にいる中で、そしてヨハネが後から来る方と紹介していたメシアであるイエス様が突然現れたのです。前回読みました3章の2節「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」とヨハネが人々に呼びかけ、大勢の人が神に背いた生き方をしていた事を認め、それを言い表した人に洗礼を授けていましたから、神の御心にそった生き方をしておられたイエス様が突然現れて、洗礼を受けたいと言われたのでヨハネはとっても驚いたのに違いありません。だから14節でヨハネはイエス様が洗礼を授けて欲しいとお願いされた時に、断ったのです。
洗礼の意味であるバプテスマの本来の意味は「一体化」という事です。 例えば白い布に色を染めるために染料液浸けるとその色に染まりますね。それがバプテスマ(洗礼)の意味です。ところで、罪のないイエスが、なぜ洗礼を受けねばならなかったのでしょうか。その理由を考えてみましょう。
①すべての正しい事をするため、つまりモーセの律法にかなっている事をするためです。マタイの福音書5章17節-18節「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」とイエス様ご自身でこの地上に来られた理由をおっしゃいました。神の律法を守る事は、私達には自分の力ではできません。しかしイエス様はそれをすべて守られ従ったお方です。そのイエス様を信じる事で私達は律法を守った事に、罪のない者として、天の父なる神様は見てくださるのです。
②洗礼を授けていたヨハネのメッセージ「悔い改めなさい(神様の方に心を向けなさい)天の御国が近づいたから」に一致を現し、その言葉が確かに神の言葉であることを認識させるためにイエス様は洗礼を受けました。
③ご自身がメシアであることを公に示すために、洗礼を受け、ここから公生涯が始まりました。
④イエス様が洗礼を受ける事で罪人である私達を一体化するために、つまり神であるのにその姿を捨てて私たちよりも低い所まで、へりくだって下さいました。そのことをパウロはコンリト人への手紙 第2の5章21節「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」そしてピリピ2:6-9「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」とイエス様がこの地上に来られた意味、十字架による罪の赦しと命を懸けて私達に愛を示されている事、そして私達に模範となって洗礼を受けてくださった人の姿を取られた神であるイエス様なのです。
次に16節17節を見てみましょう。イエス様が洗礼を受けて水から上がると何がおこりましたか?
天が開き、神の御霊が鳩のように下った。それがイエス様の上に来られるのをご覧になった。すると天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声がした。この出来事はイエス様こそメシア(救い主)であることを証明する出来事なのです。
旧約聖書に信仰の土台があったユダヤ人にとって聖霊様がくだったことを認識できるように鳩の姿をとられたのです。その起源は創世記1章2節「神の霊が水の上を動いていた」という表現は親鳥が卵を頂いているように、神の霊が地表を抱いているところから、鳥を鳩であると考えるユダヤ人の発想があります。天地創造の御業をされた神の霊がイエス様の上に来られた事で、イエス様が神である事を確認できたのです。
天の父なる神の声「これは、わたしの愛する子」というのは詩篇2篇7節「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」から来ていますが、この詩篇の言葉はメシヤが王として就任する事に関して語られた預言の言葉です。天の父なる神様がメシヤを王として就任させ、また父と子であり、愛する子であると神が宣言したのです。そして「わたしがこれを喜ぶ」とはイザヤの42章1節「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者」の御言葉に基づいています。イザヤ書には四つの「主のしもべの歌」があり、42章1節から9節はその第1の歌です。この詩篇は、神がしもべとしてお選びになった方は、神の圧倒的な支持を受け、しかも神が心から喜んで託すことのできる方である。この方は国々に公義をもたらし道を示し、真実をもって道を示すお方であり、本当の行くべき道を見失い、行き詰まってしまった人々の「いたんだ葦を折ることもなく」「くすぶる灯心を消すこともない」方として、弱い人々に行き届いたケアと愛を持って、くじけることなく道を教えるお方として預言されています。まさにイエス様の事なのです。
神であり、人の姿をとって来られたイエス様は、私たちに洗礼を受けるお手本となってくださいました。そして天の父なる神様の声である、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という言葉は、私たちに向かっても変わらずにかけてくださっている言葉なのです。
洗礼を受けた方は、その時を思い出してください。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と天の父なる神様は愛をもっていってくださいました。
これから洗礼を受ける予定の方は、覚えておいてください。このように天の父なる神様は声を掛けてくださるのです。洗礼を受けた後、人生がドラマチックに変化するわけではありませんが、受けた方のほとんどの方は「喜びがあった」とか「イエス様と一緒に歩む人生が始まる安心感が与えらた」とおっしゃいます。
洗礼を受けるとはどんな意味があるのでしょう? その前に何を信じているのかを確認しましょう。Iコリント15章3節4節「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」を信じています。ですから、洗礼はキリストの死、埋葬、そして復活を表しているのです。コロサイ人への手紙2章12節「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」
また、ガラテヤ人への手紙3章27節「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」とあるように、洗礼を受けるとイエス様と一体となるという事です。
洗礼を受ける事でクリスチャンになるのではなくて、「イエス様を信じています」と表明する事なのです。そして洗礼を受ける事はイエス様が命令されている事ですから、イエス様を信じたら、それに従う事が、神の愛への応答なのです。
洗礼を受ける事によって、罪を赦されて神の子どもとして新しく生まれ変わり、神の喜びとなり、神の家族の一員となったことを示すのです。
変わることのない天の父なる神様のご計画は、イエス・キリストを通して、私たちをご自分のもとに引き寄せ、私たちを神の家族の一員とするために養子として迎え入れてくださるということです。エペソ人への手紙の1章5節「神は、みこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」と。
「養子」と聞くと、日本では実子よりも格段劣るように考える人が多いようかもしれませんが、アメリカなどでは、聖書的思想の基盤があるせいか、「養子」といえども、「実子」と同じ特権と責任を有する者として受け止められています。
養子となる特権について、このような話があります。アメリカのサンロレンゾ教会に通われているクラーク・桂子さんという方について紹介します。彼女は、第二次世界大戦後に、黒人の父と日本人の母との間に生まれた混血児でした。彼女は自分自身をミックスと言っていますが、幼い時から両親に捨てられて育ちました。九州の佐賀で育ち、学校では混血児は彼女ひとりだけだったので、そのためにいじめられました。彼女が大きくなって、あるラジオ文化放送「今晩は、森繁久弥です」という番組を聞き(と言っても50年前のことですが)、その番組に、自分の出生故に悩み、苦しみ、その結果、自殺未遂をしたことを投書しました。その投書は番組で取り上げられて反響を呼びました。その話は北カリフォルニアにまで及びました。リスナーの中に、日本語のわかるクラークという一人の青年から便りがあり、その後そのクラーク青年は日本に来てくれて、桂子さんはクラーク青年の優しさと温かさから結婚してアメリカに行こうと思いましが、父親がアメリカ人で消息不明、彼女の戸籍はなく、出国が許されませんでした。そのとき、戸籍のない彼女のために役所と掛け合ってくれた方がいました。その方は、彼女を自分の養女にする決心をして、その書類を役所に提出しました。戸籍を持つことができた彼女ははじめて出国が許可され、クラーク氏との結婚が実現できたのです。現在も、彼女はその父親の娘として、他の実子の二人の兄弟と仲良くしているそうですが、その彼女の養父となったのは、なんと俳優の森繁久弥氏なのです。
このように、神の養子として迎えられるとは、特権です。私たちも、神様の子ども(養子)とされたことに大いに誇りをもって良いのです。なぜなら天の父なる神様が私を養子として選んで下さったからです。
自分が天の父なる神様から外れている罪を自覚しているなら、心を神様に向けて、イエス様が私達のその罪のために十字架に掛かられて、死を打ち破って蘇られたことを信じるだけで、その神の子どもとされる特権に与るのです。それは年齢に関係なく神の子どもとされるのです。
信じたらすぐに洗礼を受ける事をオススメします。信仰の第1歩だからです。今という時は神様が私たちに与えてくださったプレゼントです。第2コリント人への手紙6章1節2節「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』神の救いの恵みをしっかりと受け取り、主イエス様に従う日々の歩みでありますように!