2017年6月10日 マタイの福音書3:1-12「叫ぶバプテスマのヨハネ」

鈴木 孝紀師による

 

 今日の箇所では、荒野でバプテスマを人々に授けていたヨハネという人物が登場します。彼は、旧約聖書において預言者イザヤを通して預言されていた人物でした。3節にはこう書いてあります。「この人は預言者イザヤによって、『荒野で叫ぶ者の声がする。[主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。]』と言われたその人である。」バプテスマのヨハネは、神様が計画し、その時代に用意した神の器だったのです。

 彼は、いわゆるカリスマ的存在でした。その証拠に、彼が居た場所には、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々が集まってきます。あまりに人が集まるので、当時の指導者たちであったパリサイ人とサドカイ人たちでさえも、「バプテスマのヨハネとは一体どういう奴なんだ。」と、ヨハネを見にきたのです。

 

 聖書は、バプテスマのヨハネを「叫ぶ者」と呼んでいます。ここでの「叫ぶ」というのは、ただ大きな声を出す、というよりも、幼い子供の母親が、子供がケガしてしまう危ないと思った時に思わず「危ないっ!!」と叫んでしまうような、そんな「抑えきれない感情が溢れてしまって出る大声」を意味しています。

 バプテスマのヨハネも、ただ「わーわー」と意味なく叫んでいた訳では有りません。彼の内側から、抑えきれない、これを伝えなければならない、という情熱、マグマなようなものがエネルギーになって叫んでいたのです。

 では、ヨハネは一体何を叫んでいたのでしょうか。叫んでいた内容は、大きく2つです。1つは「悔い改めを求める内容」、2つ目は「後から来られる方の紹介」。 バプテスマのヨハネは、「悔い改め」と「後から来られる方」、この2つを叫び、人々へと知らせたのです。

 

 まず、「悔い改め」です。彼のいう「悔い改め」とは何だったのでしょうか。小学生のとき、何か悪さをすると「孝紀くん、反省しなさい。」とよく言われました。「反省しなさい。」なら、身近で判りやすいですね。でも、そうではなくて「こら、孝紀くん。悔い改めなさい。」って言われたら・・・ちょっとよく判らないですね~。この「悔い改めなさい」という言葉は、「今居る地点から、反対側へ方向転換しなさい。Uターンしなさい。」と言い換えることができます。ヨハネは、当時のユダヤ人たち、そして彼らの指導者でもあったパリサイ人、サドカイ人に対して「悔い改めなさい!Uターンしなさい!」と叫んだわけです。

 これは、非常に画期的な言葉でした。当時のユダヤ人たちは、「私たちは、悔い改めは要らない」と考えていました。なぜか! 「私たちは神によって選ばれた国民だ。その神から律法を与えられ、その律法を守っている。しかしどうだ、ユダヤ人以外の異邦人達は全く神を知らない。彼らは律法を守らず、汚れた生活をしている。彼らには悔い改めが必要だが、私たちには必要ない。」、こう考えていたからです。

 しかし、ヨハネはそのような考えをばっさり、一刀両断してこう言います。9節「『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。」10節「斧もすでに木の根元に置かれています。」 つまり、「アブラハムという偉大な祖先がいることを理由に悔い改めが必要ない、と考えているが、全く間違っている。神様は必ず異邦人だけでなく、ユダヤ人も裁く。そしてその日は想像よりも遥かに近いのだ。」、そう警告をしたわけです。

 ヨハネの表現はとても過激で、灰汁の強い、受け入れ辛く感じるメッセージです。10節には、「良い実を結ばない木は切り倒される。」12節「殻を消えない火で焼き尽くす」と書かれています。とてもショッキングな印象を与えます。怖い、と感じる人も居るでしょう。

 しかし、ヨハネは「絶望」のメッセージを伝えたかったわけではありません。絶望ではなく、彼は「希望」のメッセージを伝えたかったのです。

 詩篇の103篇にはこう書いてあります。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって、私たちに報いることもない。」 

 ヨハネは、ただ人々を責め立てる為に叫んだ訳では有りません。ヨハネは、神が罪を裁く方でありながら、罪から悔い改める者を赦し、受け入れる方である、ということを知っていたのです。神が、憐れみ深く、情け深く、忍耐をもって私たちを待っておられる、そのことを彼は知っていました。

 だからこそ、ヨハネは「悔い改め」を叫びました。「神に向かってUターンしなさい。自分の生まれや、律法を守っていることを誇るのではなく、ただ神のみを誇りなさい。」、そう叫び続けた訳です。彼の原動力は、愛であり、愛を持つからこその叫びでした。ただ非難をして、欠点を指摘する。それが目的だったのではありません。気付いて欲しい。神に立ち返り、共に神に頼り生きる者となって欲しい、その愛が彼を叫ばせ続けたのです。

私は、大学生時代に神様を信じて、クリスチャンになりました。クリスチャンになる以前は、宗教大嫌い・クリスチャン大嫌い・聖書意味が分からない、という所謂アンチでした。そんなアンチな私が、なぜかクリスチャン系のサークルに入ってしまい、様々なクリスチャンと出会います。そこで出会ったクリスチャン達は、「聖書」と「聖書がいう神様」を馬鹿にする私を、非常に愛してくれました。大切に扱い、私の意見を頭ごなしに否定することはありませんでした。しかし、彼らは「私が神なんて居ない。神様を信じるなんてバカげている。」と言うと、「孝紀、神様は居るんだよ。神様は孝紀を愛し、孝紀の帰りを待っているんだ。」と言いました。「いない」という私と、「いる」という彼ら・・・。対立します。しかし、彼らは、私を非難する為に対立したわけではありません。私を愛し、そして私のことも愛している神を信じているからこそ、私に神様という存在を叫び続けたのです。彼らの叫びも、原動力は「愛」でした。

さて「悔い改め」と同時に、バプテスマのヨハネは「後に来られる方」について紹介します。バプテスマのヨハネが、「後に来られる方」と紹介している方こそ、人々が悔い改めるべき、方向転換するべき対象だったのです。

 当時の人達にとって、ヨハネはカリスマ的存在でしたから、中には「ヨハネこそ救世主だ。旧約聖書に預言されていたメシア、ユダヤ民族を救い出す者ではないか。」と考える人も居たのでしょう。ですが、11節でヨハネはそのような考えにこう言います。「私は、あなたがたが悔い改める為に、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません。」

 バプテスマのヨハネは、あくまで「後から来る方」を強調しました。自分自身の力や、自分自身が人々から尊敬を集めていることを誇ったのではなく、彼が知らせるべき、後から来られる方、救い主イエス・キリストを叫び続けたのです。

 バプテスマのヨハネが紹介した「イエス・キリスト」、そのイエス・キリストもヨハネと同じ言葉を言っています。2節の言葉です。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 イエス・キリストも4章で同じ言葉を言っています。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」、言い換えるなら「方向転換しなさい。Uターンしなさい。なぜなら、神が裁き、信じる者と信じない者をより分け、完全に神の支配となった世界がもうすぐ来るから。」そうバプテスマのヨハネも、イエスも言いました。 イエス・キリストも、悔い改め、方向転換を求めています。

私たちを悔い改め、方向転換に招く、イエスの言葉はこういう言葉です。マタイの福音書1128節「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

神であるイエスは、優しく私たちを招きます。愛を持って、私たちを守ります。私たちが、世の中で働く中、生活する中、生きていく中で負ってしまう疲れ、悩み、重荷を、神は知っています。神様は、その疲れ、重荷、悩みを抱えなくて良い、私のところに来なさい、私のところにきてゆっくり休みなさい、と今日も招いています。

 ある人達は、神に頼る、ということに躊躇いを覚えます。「自分1人で出来る。みんなもそうしている。私だけがそれを出来ないなんて、私が不完全だと認めるようなものじゃないか。」、そう考えて、神に頼らず、自分の力で頑張ろうとします。

 しかし聖書は、人間が完全だとは一言も言っていません。神様は、私たち人間が完全・完璧だから愛しているわけではありません。「不完全な私たち」を愛しているんです。不完全だからこそ、失敗します。出来ない事があります。不得意な事、苦手なこと、あります。そんな時、神様に頼る、神様助けて下さい、神様が力を与えてくれたら出来ます、神様助けて下さい、そう叫ぶ私たちを愛しているんです。

 

私には、3月に生まれた姪っ子がいます。生まれたばかりで、泣くか、ぼーっとしているか、何か良く判らない遊びをしているか、寝ているか、それしかしません。起きていても大体泣きます。夜泣きもします。何にも利益がありません。泣き声は大きいし、泣き止んだと思ったらオムツが不快でまた泣く、そんな姪っ子が愛らしい、愛おしいんですね。不思議です。

 人に、親に頼らなきゃ生きていけない赤ん坊、それが愛おしいのであれば、神様にとっては、私たちも愛おしいはずです。なぜなら、神様は私たちを造った、天のお父さんだからです。神様は、私たちの天の父、私たちは、神様の子供ですよ。だから、神様にとって、不完全な、神に頼らなきゃ生きていけない人間は、とても愛おしいのですよ!愛らしいのですよ!愛して愛して、好きで好きで、たまらないんです。

 だからこそ、神様から離れている状態にとても悲しんでいるんです。だからこそ、悔い改めに招くんです。だからこそ、帰りを待っているんです。「私のところに来なさい。」、神様はそう叫ぶんです。

 そして、神様は、悔い改めた、神様に帰ってきた人にこう約束しています。マタイの福音書2820節「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 決して一人きりにしない。この地上で、そして後に来る天国においても、私はあなたと共に居る。これが悔い改めた人への約束です。

 

 もしまだ、神を信じておらず、神から離れた考え方、生き方、生活をしている方がいるのであれば、ぜひ今日を区切りに方向転換しませんか。Uターンした先に居る神様は、決してあなたを裏切りません。

 また、すでに神に立ち返った私たちも、気付いたら神から離れていることがあります。しかし恐れないで下さい。神は、悔い改める者を赦し、優しく受け止めてくれます。 

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 

 私たちは神に立ち返り、神に頼り、この一週間も神に守られ生きていきましょう。