20170429 マタイ1:2-6A「神の憐れみと選び」
先日、1951 年から57 年間にわたって、ラジオ放送「世の光」で聖書のメッセージを語り続けてきた羽鳥 明先生が96年の地上の働きを終え、天に凱旋されました。今でも「世の光」というラジオ番組は続いていますし、どこかで聞いたことがある方もおられると思います。
私は中学、高校生の時、テスト勉強でラジオを聞きながら徹夜した朝、流れてくる「世の光」を聞くと、薄っすらと朝日が差し込む部屋で聞きながら、心にも朝日が差し込んできた事を覚えています。今は、ラジオだけでなくインターネットで聞けますから、いつでもどこで聖書の言葉とメッセージ、たった10分の放送の中で、励ましを受けて、希望を得る事が出来ます。
羽鳥先生はその生涯において、特にラジオという電波を通して、教会のない地域や世界中の人達にイエス様の愛を、救いを伝え続けていらっしゃいました。
私達の地上での生涯を通じ、イエス様の救いを証ししていきたいと思います。
前回はマタイの福音書1章1節からマタイの福音書の全体像とその目的について学びました。今日は2節から6節の前半分より、神がどれほどまでに憐れみ深いお方なのかを学んでいきたいと思います。アブラハムからダビデまで約1000年の歴史があります。
ユダヤ人の家系図には、たいていは男性のみの記載ですが、マタイの書き記した家系図に女性の名前が出て来る、それもいろいろな事情を抱えた女性が出て来る。それもユダヤ人ではない女性が出て来ることは、イエス様の福音が国籍など関係なく広がっていくのだという事と、神様の大きなご計画と寛容さと大きな愛を示しています。とても感動しませんか? そういう私も様々な事情を抱えていましたから、神様の慰めをとても受けました。
2節に関しては創世記でもずっと学んできましたかたら、アブラハム、イサク、ヤコブと信仰が受け継がれ、ユダへとつながっていく。かつてユダは弟ヨセフを奴隷に売り飛ばし、嫁いできたタマルと騙そうとした人物です。どうしてそのようなユダから、メシアが生まれるように神様はされたのか、それはユダが食料危機という試練、家族の危機という試練を通じてドラマチックに変えられたのです。悔い改めそして命がけで末の弟ベニヤミンのために執り成した事を創世記の44章で読みました。ユダの変えられた姿をみると、どんな人でも主イエス様によって変えられる、という希望が持てますね。
3節「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ」この箇所に先程もお話ししたように、女性の名前が書かれています。タマルです。タマルの事をおぼえていらっしゃいますか? 創世記38章です。タマルの事情を考えると女性として憐れみの感情が湧いていきますし、ある意味たくましさ、したたかさを感じます。タマルですが、彼女はユダの長男の嫁でした。けれども、その夫は死んでしまい、後継ぎとなる次男がタマルを妻としましたが、次男も死にました。そこで三男が彼女と結婚しましたが、彼も死んだのです。父のユダはタマルに四男が大きくなってから、おまえに与えよう。」と言いましたが、四男まで殺されるのがいやだったから、タマルに与えるつもりはなかったのです。そこでタマルは、ベールをかぶって売春婦の格好をして通りに座りました。ユダが来て、ユダはタマルを買いました。彼女は、ほうびのしるしとして、印形とひもと杖をユダからもらいました。その後に、ユダはタマルが妊娠していることを聞いて「あの女を焼き殺せ。」と言いましたが、タマルはその印形とひもと杖をユダに渡したのです。このタマルが、イエスの先祖として加えられています。タマルは双子のペレツとゼラを産みました。このペレツがユダの後継者になり、子孫からダビデが生まれていくのです。創世記38:27-30「タマルの出産の時が来たが、胎内には双子がいた。出産の時、一人の子が手を出したので・・・真っ赤な糸を取ってその手に結んだ。ところがその子は手を引っ込めてしまい、もう一人の方が出てきたので、助産婦は言った『なんとまあ、この子は人を出し抜いたりして』。そこで、この子はパレス(出し抜き)と名付けられた。その後から、手に真っ赤な糸を結んだ方の子が出てきたのでこの子はザラ(真っ赤)と名付けられた」このように割り込んで生まれた次男パレスが系図の中に出て来る。神の選びは本当に不思議です。そしてエスロンが生まれ、アラムが生まれと続きます。系図にしか出てこない目立たない人も、含まれている。私達のような普通の人もイエス様の救いの、神の歴史の中に組み込まれていると思ったら、なんだかすごい気分になりますね。
4節から6節「アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、サルモンにラハブによってボアズが生まれ、ボアズにルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデが生まれた」この系図の中に特徴のある人をピックアップすると、遊女のラハブ、ボアズ、ルツ、オベデ、エッサイ、そしてダビデでしょう。
ラハブについての詳細は旧約聖書のヨシュア記2章をお読み頂ければと思いますが、ヘブル人への手紙11章31節でこう要点を述べています。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました」
イスラエルの民をエジプトから解放するために任命されたモーセの後を継いだヨシュアは、対策を考えるために、用意周到な準備をします。なぜなら、カナンを征服する前にエリコの町を攻め落とすことはとても重要であり、これが最初の戦いだったからです。そこでヨシュアは二人のスパイを予めそこに遣わして、情報を収集させようとしました。そしてこの二人のスパイをかくまったのがラハブ。彼女が命を懸けてまで彼らを守ったのは、彼女がカナン人であったにもかかわらず、「イスラエルの民を導いた神こそが、本当の神だ」と信じるようになっていたからです。彼女はこう信仰告白をしました。ヨシュア記2章11節「あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです」その信仰によってラハブはイスラエル人の二人のスパイを助けたのと同時に、神の守りによってラハブとその家族の命が守られていくのです。
異邦人であり、娼婦であったラハブによってボアズが生まれます。ボアズとルツについては旧約聖書のルツ記で詳しく見る事ができます。ルツ記は1章から4章しかない書物ですから、ぜひ読んでください。ルツは異邦人であるモアブ人女性でありながら、亡き夫の義理の母ナオミに仕え、真の神を信じて歩む信仰を持ち、神様のお計らいで姑のナオミの夫の親戚にあたるボアズに出会い、ボアズと再婚しました。ボアズは神を畏れ、知恵があり愛の溢れる男性です。ユダヤ人であるボアズはモアブ人の女性であるルツが献身的で謙遜な女性である事、そしてボアズは親戚としてルツと姑ナオミに対しての責任を果たし、神の祝福を与えたのです。ところでモアブ人のルーツは創世記19章30節でアブラハムの甥のロトとロトの娘の近親相姦によって生まれたモアブが先祖です。
ルツ記4章に書かれていますが、ボアズは親戚や周りの人たちが納得する形をとってボアズはルツと結婚し、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産み、オベデ「神のしもべ」という名前を付けました。オベデはルツにとって、姑のナオミにとっての大きな慰めと希望になったのです。
オベデからエッサイが生まれました。そしてエッサイからダビデ王が生まれます。
エッサイついてはイザヤ書11章1節に名前が出てきます。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」・・・イザヤ書11章はダビデ王とダビデの子孫として救い主イエス様が生まれる事の預言が書かれていますが、なぜ「エッサイの根株」と言ったのか?エッサイという名前を聞いても、「おお、あれがすばらしいエッサイか!」と感動する人はいませんでした。せいぜい近所の人が知っているくらい・・・息子ダビデのことは知ってるけど、エッサイの事はえっさい知らないねぇ」という感じだったのです。エッサイの仕事は一番低い身分の仕事とされていた羊飼いでした。
イザヤがこの事を預言した背景は、イスラエルが神に背き神の裁きによって北王国イエスラエルと南王国ユダに分かれて神への背きの罪をたくさんしていた民への警告であり、それゆえにアッシリアに攻められるという苦しい状況から救うのは「エッサイの根株から出る者である」と告げたのです。「身分の低い羊飼いのエッサイの根株から新芽が生え」とイザヤを通じての神の言葉は、やがて来られるメシアがダビデの家系から王の王として
生まれてくるのにも関わらず、へりくだった状況で生まれて来られる、ということを示すためだったのです。 エッサイには実際は8人息子がいて、末っ子がダビデでした。なぜ、エッサイの末っ子で、体の小さかったダビデが王となり、イエス様の系図に入っているのか、第1サムエル記16章をお読みください。16章だけでなく第1サムエル記とても面白いですから読んでください。読みながら、神の不思議な選びと、ご計画の中に私達は置かれていると心で感じてくださったら幸いです。
最後にクリスチャンの方を紹介します、「ひふみん」こと、現在77歳の棋士(将棋)加藤一二三さん。「いつまでも現役の将棋士でいたい」と言っていましたね。洗礼名よりパウロ先生とも呼ばれるそうです。対局中の望ましい態度として、「元気いっぱい、明るい気持ちで、前向きに積極的に、快活で、勇気を持っていること(ひるんだり、弱気になったり、落ち込むのは良くない)」が大事であり、いい状態を持続させるために祈ったり賛美歌を歌ったりするそうです。
加藤さんは昭和四十五年、三十歳の時、カトリック の教会で洗礼を受けました。加藤さんがキリスト教に惹かれ始めたのは、二十四歳の頃、ちょうど将棋で長考するようになったのと同じ頃です。当時の二人の一番強い棋士との勝負を続けていくうちに、将棋の中に、人間の理解を超 えた世界があることに気付いたそうです。将棋は、 将棋盤の上に想定されるあらゆる可能性の中から、互いに最善の一手を探り合い、未知の世界を切り開きながら戦います。加藤さんは、その道筋には、ある極限までくると必ず勝利に結び付く真理とも言える一手がある、と確信するようになりました。人事を超えた真理の世界、それが何なのかを追求することが、棋士として、人間として、揺るぎない確信を持って生きることに繋がるのではないか。そう考え始めた時に、加藤さんはキリスト教と出会ったのです。若い頃から音楽が好きだったり、 美術に関心があったので、クラシックではモーツァルトの音楽を聴いていると宗教曲が多く、キリスト教の世界は教会に行く前から身近にあったし、クラシックだけでなく、ミケランジェロとか、ラファエロの宗教画 とかによってキリスト教の方が割合入って行き易かったそうです。棋士として、キリスト教のどこが心をとらえたのかというと、人はみな一生懸命生きていきますよね。一生懸命生きていきますけれども、一生懸 命生きていく中で、勿論、神さまの助けがあるのですけれども、信仰を持って、 神さまに祈ったり、願ったりすることによって、さらにより一層の助けが得られるのではないかと思っています。将棋を指していく時に、将棋の世界の中に、特に究極の場面で、ある意味の手応えがある、確かなものがある、というふうに感じ取り、これはきっと人生の中にも確かなもの、真理というものはあるんだ、というふうに考えるようになりました。私の場合は、 将棋に打ち込んでいって、二十四歳頃に一つの飛躍、転換ですね。そこから人生というものにも、きっとこういう確かな手応えのあるものがあるに違いない、と思い、そこからキリスト教の勉強を始めました。ですから、将棋の仕事 というものは、どういうものか、と言った時に、勿論、人さまざまで、将棋の世界にだけ打ち込んでおって、一生終えても、それは一生だと思いますが、 私の場合は、ある時、転換したわけです。将棋を通して、人生とか、宗教というもの、確かなものに心を向ける事を考えるに至りました。
そのように語る加藤さんはご家族と共に、教会でもご奉仕を通じて神に仕えるものとしての人生を送られています。加藤さんの名言をいくつか紹介します。「思うようにならないからこそ、人間は成熟し、深みは増す」「その人に対して愛情がないと、正しく評価することはできない」「全力投球でやってきた結果なので、1000回勝負に敗れても恥ずかしくはない」加藤さんの精神力の源は祈りであり、全知全能の神への信頼から生まれてきます。私達もそうだと思います。
今日の聖書箇所より、神様の憐れみ、不思議な選び、ご計画、その中に私達ひとりひとりもおかれています。感謝と喜びをもって、日々歩みたいと思います。