2017年4月8日(創世記49:29−33)「帰るべき場所へ」大角 詩音 先生による
共にみ言葉の恵みに預かれることを、主に感謝します。神学校を卒業しました、大角詩音と言います。これからもよろしくお願いします。私は始まったばかりですが、今日は最後の話をしたいと思います。
人生には、最後に必ず待っているものがあります。それが、死ぬということです。日本では、死について語ることはタブー視されており、4がつく数をできるだけ遠ざけたりもします。しかし、見ないふりをしても依然としても残っているものです。私は4歳になる甥っ子がいますが、彼は嫌いな食べ物が出ると、見ないふりをします。しかし、いくら彼が「無いよ」と主張しても、依然として嫌いなものはありますね。最後には、「あるでしょ」と親に言われて、無理やり食べさせられてしまうのです。同じように、死というものも見ないふりをしても依然として存在しています。今日は、死という人生最後のミッションを見つめてみたいと思います。
今日の箇所は、ヤコブが人生の最後のミッションを達成しようとする箇所です。その前の節では、先週の説教でしたが、12人の息子たちに祝福をします。ヤコブはこの地上での最後の仕事をやり終えて、いよいよ終わりを迎えようとしています。人は、生きたように死ぬと言いますが、ヤコブは立派な最後を迎えます。彼は、若い時には、「ヤコブ(かかと)」という名前がつけられるくらいの人物でした。私の友人は、ヤコブだけは友達になりたくないと言っていました。ペテン師のようであったからです。けれども、様々な試練や神様の恵みを受けた彼は、晩年にて立派な最後を迎えるのです。皆さんは、どのような最後を迎えたいでしょうか?そのために、どのように生きることができるしょうか。
より詳細に聖書を見ていきましょう。ヤコブは、死を間際にして葬られる場所について息子たちに頼み事をしています。それは、「エフロンの畑地にある洞穴」に葬ってくれというお願いでした。
エフロンの地とは、どこでしょうか。それは、ヤコブの祖先であったアブラハムが購入したほら穴でした。そこは、カナンの地と呼ばれる場所で、アブラハムの子孫が神様によって与えられると約束された土地であったのです。ですから、エジプトではなくて、父祖たちも眠っており、約束の地で眠りたいと願っていたのです。
実は、このヤコブの願いは今日の箇所だけではなく、2章前の47章でもヨセフにそのことを願っています。彼は、神様の約束を忘れることはありませんでした。エジプトは住み良い地でした。息子のヨセフは総理大臣として、この地を治めていたので、望む場所に住むこともできた。しかし、彼は帰るべき場所があることをよく知っていたのです。それは、アブラハムが神様に呼ばれた示された地です。アブラハムの召命の言葉をヤコブも知っていたのでしょう。
「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』」(創世記12:1)
「わたしの示す地」、カナンの地こそ、私たちの得るべきで土地であると彼は知っていました。アブラハムが、後の子孫に、この土地を完全に所有した時のために買い取った畑地には、アブラハムも、その妻のサラ、そしてイサク、リベカまたレアも眠っていたのです。彼は、失敗の多い人物でもありましたが、本当に大切なことを最後まで知っていた人でもありました。それは、神様の約束を握るということです。父祖から託された祝福を継承していました。そして、この約束の地は今でもイスラエルとして残されているのです。イスラエルは、ヤコブの別名ですね。しっかりと、アブラハムに託された祝福はヤコブに継承されて、今も残されているのです。
私たちは、このヤコブの姿勢から、神様の真実さを学ぶことができます。その約束を信じる者には必ず祝福が伴うと。それと、同時に私たちにも帰るべき場所があると知りましょう。アブラハムを始め、ヤコブたちの信仰を見て、後の新約聖書の記者はこう言いました。
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:13)
彼は人生を、「旅人、寄留者」として生きたのだと。いつの日か、本当の約束の地に入るまでは旅人として生きるのだと。たとえ、住み心地が良くとも、悪くとも私たちの本当の故郷は、ここではありませんね。天国にあります。渋沢先生は素敵な先生ですが、よくこんなことを言います。「この地上は旅路です。ですから、旅の恥はかき捨て。恥をかいて、主の栄光を求めていこう」と。すごい信仰ですね。私たちにも学ぶことができると思います。ヘブルの記者は、「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え」と言いました。約束の者を手に入れないままに天に凱旋したが、それを見て喜んで生きたと。私たちは、この地上でも神様の祝福を見ることができますが、それとは比べられないほどの祝福を天にて見ることもできます。
天での祝福を歌った歌に、Thank you for giving to the Lordという歌があります。歌詞を紹介します。「神が報われる人生」という邦訳です。
私は天国に行った夢を見た。あなたも私とともにそこにいた。
天使たちの歌声の中で、あなたの名を呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、一人の若者が微笑みながらこちらに歩いてくる。彼はこう言った。
「友よ。あなたは私のことを知らないと思いますが、ちょっと聞いてください。
あなたが日曜学校で教えてくれていたとき、私はまだ8歳でした。
毎週クラスが始まる前に、あなたはお祈りをしてくださいましたね。
ある日、いつものようにあなたがお祈りをしてくれたとき、私はイエス様を私の心にお迎えしたのです」
また、別の男性があなたの前に立ってこう言った。
「あのときのことを覚えていらっしゃいますか?
一人の宣教師があなたの教会を訪ねた日のことです。
彼は宣教の働きを紹介する写真を見せてくれましたね。
聖霊の迫りに涙したあなたは、十分なお金を持っていなかったけれど、
持っていたものをささげてくれました。
あなたのささげものをイエス様は受け取ってくださいました。だから、私は今ここにいるんですよ!」
一人、また一人と、いろいろな人がやってきた。
惜しみなく与えたあなたの生涯は、どの人の人生にも何らかの形で関わっていたようだった。
あなたが人知れず地上で行った小さなことやささげた犠牲-それが今、
天で高らかに告げ知らされているのだ。
天国ではあなたはもはや泣くことがないと聖書は言っている。
それでも、あなたの目に涙が浮かぶことはあると、私は思う。
なぜなら、あなたがイエス様に手をとられて主の御前に立つとき、
あなたは主がこう言われるのを聞くからだ。
「私の愛する子よ。あなたの周りを見なさい。彼らこそがあなたの報いです。
あなたの天における報いはこのように大きいのです!」
「神様にささげてくれてありがとう。私の人生はあなたの犠牲を通して変えられました。
神様にささげてくれありがとう。あなたの惜しみに無さを感謝します」
これが、天での報いです。私たちが考えられないほどの報いがあるのです。もはや、天にて泣くことないけれども、涙が出るような喜びが。この地上では、分からなかった祝福や、私たちの犠牲の意味を知り、
主と多くの人と共に喜ぶために旅人として生きていきましょう。
また、もう一つの天での祝福は、「自分の民に加えられる」ということです。
「ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。」49:33
私たちの場合は、死ぬことを「天に帰る」とか、「天で再会する」と言います。クリスチャンでなく仏教の人も言いますが、輪廻はどこに行ったのでしょうかね。自分の民に加えられるとは、天の家族との再会があるということです。ようやく、人生の旅路を終えて、他の家族、民のもとに帰ることができるという祝福をこの箇所では語っています。
私たちが期待できる、一つの希望は、天での再会ですね。キリスト教の葬儀を喜んでくれる人は多くいるそうです。それは、そこに希望があるからです。昇天は、天の兄弟姉妹が拍手で迎えてくれる、凱旋であると思います。何よりも、天の父が「よくやった」と迎えてくれる。家に帰ることができるのです。私は、まず先に天に帰った家族に会いたいです。祖父や、私が産まれる前に天に向かった姉に会いたいと思っています。出来れば、イエス様の次に、姉に褒めて欲しい。胸を張れるほどの人ではないかもしれないが、自分なりの頑張りを見ていてくれるはずだから。天で会えるのは楽しみですね。その時に、喜んで会いたいと思います。ある人は、あの人がいるなら天国には行きたくないと言いますが、その人も、自分も変わっているから大丈夫です。もしも、大事な人が天国に行ったのかを不安に思うなら、神様に期待しましょう。そして、大事に思ってくれる人は、必ず、私たちが天国に行くことを望んでいることを覚えたいと思います。
私たちが天に帰った時には、備えられた家があります。この地上ではボロ屋に住んでいたとしても、最高の家を最高の大工が作っていてくれるのです。イエス様はこう言っています。
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:3)
イエス様が、私たちのために場所を、家を備えてくれるのです。ですから、ヤコブも安息の中で息をひきとることができました。私は、天国に行けるかどうかと不安がる必要は全くありません。私たちの努力や、自分がどう感じているかに関わらずに、イエス様の十字架を信じるだけ100%救われるからです。ですから、問題は、どんな家に住むのかということです。
聖書には「天に宝を積みなさい」と書かれています。皆さんは、預金をしているでしょうか?色々な方法があるそうですね。私は、天国預金をお勧めします。私たちが積み立てただけ、利子付きで帰ってくるはずです。虫に加えることや、不正が起こること、破産することはありません。近年では、金の価値が上がっているそうですが、天の宝の価値はいつも変わりません。私の知り合いの牧師に素晴らしい奉仕をする人がいます。ですが同時に、それを捨てても見えるのです。冗談ですが。どんどん、積んでいきましょう。
最後に、お隣の県の教会。土浦めぐみ教会の話を少しして終わりたいと思います。この教会は、大変に葬儀に力を入れている教会です。自らの納骨場も、セレモニーホールも持っています。そして、できる限りの形で、その人の遺族が喜ぶセレモニーをします。花祭壇は綺麗ですよ。彼らは、希望を持って死を迎える葬儀を証の場所として用いています。死さえも証に。人生をフルに神様に使ってもらう一つの方法です。
わたしたちは、最後まで帰るべき場所に向かって進んでいきましょう。そこには、大いなる報いがあります。安らかに最後を迎える秘訣は、自分がどこに行くのかをよく知っているということです。その素晴らしさを知れば知るほど、死は希望であり、この地上を精一杯に生きさせてくれるものとなるのです。お祈りしましょう。