3月18日 創世記47:27-31「最期まで導く主」

 

 ある牧師がある方のご臨終のときに駆けつけた時、その方のご長男に、こう尋ねました。

「お父様の最期の言葉は何でしたか?」

するとそのご長男はこう言いました。「はい先生。父は何かを言いたそうに何度も口を開けていたのですが、とうとう何も言えないまま、逝ってしまったのです。」 

牧師が「え、どうしてお父様は一言も言えなかったですか?」と尋ねると、「実は、母が最期までしゃべりまくっていましたから・・・」おしゃべり好きな奥様がいると最期の時まで大変ですね~。

 

 みなさんは自分の最期がもう近いと思った時に、家族に、友人に伝えたいことはしっかり伝えておきたいと考えているかもしれませんが、どのような言葉を家族や周りの人に残したいでしょうか? 自分の最期は誰に看取ってもらいたいと思いますか? 

今日はそのような事を思わされる聖書箇所です。

 

 27節「イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得、多くの子を生み、非常にふえた」ゴシェンの地については、2週前の真也先生のメッセージでも説明がありましたが、エジプトのカイロに近い牧草地であり、エジプト人が嫌う外国人であり羊飼いであるヤコブ一族にとっては寄留の生活に適切な場所であったのでしょう。ゴシェンの地に住めるようにヨセフの配慮には、土地的に、民族的にそして信仰的に、そこでヤコブ一族の子孫が増えるようにと考えての事でした。父ヤコブはそこで17年生きました。そして147歳になったヤコブの最期の時です。29節、30節でヤコブはヨセフを呼んでこう言いました。「もしあなたの心にかなうなら、どうかあなたの手を私のももの下に入れ、私に愛と真実を尽くしてくれ。どうか私をエジプトの地に葬らないでくれ。私が先祖たちとともに眠りについたなら、私をエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってくれ。」手をももの下に入れる事は、最も厳粛な契約をするときの行為です。そして「眠りについたなら」と言ったのは死の向こうに命がある事を確信していたので、このような言葉が出たのです。そして「私をエジプトから運びだして、先祖たちの墓に葬ってくれ」と故郷カナンへ帰ることへの切なる思いを伝えたのです。それを聞いたヨセフは「私はきっと、あなたの言われたとおりにいたします」と力強く答え、ヤコブは「私に誓ってくれ」と言った後の31節の後半「イスラエルは床に寝たまま、おじぎをした」と訳されていますが、ヘブル語の原文の意味は「イスラエルはベッドの頭の方に向かってひれ伏した」つまり主を礼拝したのです。ヤコブの人生の、また信仰生活の総決算である最期の時に「床のかしら」に向かって、「杖のかしら」に寄りかかって、神を礼拝しているのです。

聖書において「杖」は重要な意味をもっています。有名な詩篇234節には「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。・・・あなたの杖が、それが私の慰めです」というダビデの告白があります。杖は旅行をする時に大切な役割を果たしました。山登りするときに杖があると便利ですよね。水戸黄門さまも杖をついて旅していましたね~。荒れた地を歩いたり、獣を追い払うために不可欠なものですし、旅において一本の杖があれば何よりの助けになるのです。

私達にとって神の国へと安全に導いてくれる「杖」はイエス・キリストだけです。そのイエス様がマルコの福音書6章8節で「旅のためには、杖一本のほかは、何も持っては行ってはいけません」と言われましたが、人生の旅路において必要なものは「杖一本」―それは主イエス・キリストとその方が語られる「みことば」だけを持って生きる生活をすることなのです。そこに満足する生き方を見出すことなのです。険しい人生の旅路を送ってきたヤコブの最期の姿、それはまさに神を唯一の「杖」として寄り頼む姿です。ヤコブの人生、確かに若い時にはずる賢さや欲しい者はなにがなんでも手に入れたいという性格であり失敗もありましたし、忍耐を要する試練にも会いましたが、確かに主はヤコブの人生を祝福しました。人生を導く主により頼んだ人生だったのです。そして最期の時を迎え、息子ヨセフに願いを託し、主を礼拝する事でより平安を得たのでしょう。

 

 心の平安を得て、安らかな最期の時を迎える秘訣、それは主イエス様の十字架で流された血潮によって神と和解が出来た事を信じる事です。人生の最期の時の在り方がその人の人生を一番現してしているのかもしれません。天国への希望をもって歩むことは、この地上での歩みに大きな影響を与えます。皆さんは、天国へのあこがれはりますか?そこに神の都があるのを知っていて、そこに入りたいと切望していますか?

 

詩篇4篇8節「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」

 日々の生活の中でイエス様が私達を導いてくださっていると感じる事はありますか?

もしくはイエス様が導いてくださると積極的にしているでしょうか?

 

 先日、この春から大学生になる女の子達をはじめて教会に連れて行きました。はじめて聞く賛美の歌詞。「わたしの主」と何度も出てきます。(当然ですが)

 礼拝が終わった後に、「音楽に合わせて『わたしの主』と歌ったけれど、どう意味かわかった? わからないよね~。私の人生を導くお方、という意味なんだよ。ずっと親の世話になり、大きくなるにつれて 自分でいろいろと決めたり、自分のしたいようにしてきたよね。よく考えてみて、いろいろと迷う時、なにを中心において考えたら良いと思う? 目には見えないけれど、この宇宙を、自然を作った神様がひとりひとりを大切に思って愛してくださっていて、その神様がみちびいてくださっていると思ったら迷いや、悩みは軽くなると思うし、とても励まされると思うでしょう。これから新しく楽しい大学生活が始まるけど、大変な事も多くなる、だからこそ、本当に神様はいるんだ、愛されているんだ、人生を導いてくださる方がいるんだと思えたらやってけるね~。」と話しました。毎年、卒業シーズンの恒例にしています。その時はわからなくても、ある時に思い出してくれたら・・・という思いです。

 

 ヨセフの人生とともにおられた神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、イエス・キリストを救い主を信じる私達にとっても、そうです。人生のターニングポイントの時にこそ、すべてをお造りになった「神が私のだ」といつも以上に実感するのではないでしょうか? 

 先程も紹介した詩篇23篇は「詩篇の中の真珠」と呼ばれるほどに有名な詩篇です。暗唱している方もいらっしゃると思います。

 

 アメリカにある村の小さな教会で、年に一度の夕食会が行なわれ、食事の後の余興で、司会者に指名された人は何かその場で即興で出し物をするという一芸大会がありました。

司会者が指名したのはジェームスという男性で、シェークスピア調で聖書の詩篇23篇を流暢に暗唱しました。朗読が終わった時、拍手喝さいでした。次に司会者は、部屋の隅っこにいたビリーを指名しました。彼はボロボロの麦わら帽子をかぶっていて、ノソノソモゴモゴしながら前に出てきました。そして言いました。「俺はこれといった芸はできないけど、今ジェームスが暗唱した詩篇23篇ならできるんだけどなぁ・・・」みんなは、「同じでいいからやってくれよ!」と言ったのでビリーは、このように始めました。「昨年は母が死んで、辛い年だったけど、主は私の羊飼いであって、私には乏しいことがなかったよ。畑は不作で、子供たちも学校に行けずに働いたけど、主は私を緑の牧場に伏させて、憩いのみぎわに伴われたな~。色々な問題で悩んで落ち込んでいたけど、主はわたしの魂を生き返らせてみ名のために、わたしを正しい道に導いてくださったな~。仕事中に危険な目に何度も遭ったけど、神さまがわたしと共におられるから、災いを恐れることはなかった・・・。結局、子供たちは学校をやめなきゃならなくなったけど、あなたのむちと、あなたの杖によって私は慰められました。どんな時にも、わたしの杯はあふれて、満たされました。わたしの生きている限りは、必ず恵みといつくしみが伴う、という確信があります。わたしはとこしえに主の宮に住みます」とビリーの体験談付き詩篇の朗読が終わった後、人々の目は、涙でいっぱいでした。その時、先ほどシェークスピア調で朗読したジェームスが立ち上がって言いました。「ビリー! 私は聖書の詩篇23篇を知っています。でも、あなたはそこに出てくる羊飼いが、どういうお方かということを知っています。そして、それこそが人生で最も大切なことであることが、今わかりました。ありがとう!神は私たちの日々の力です。」食事会の後の余興の時間は、主によって祝福と恵みの最高の時間になりました。

みなさんにとっての詩篇23篇、人生を導く主についていけば、人生の最期の時にこそ、大きな平安に包まれるのではないでしょうか!?

詩篇23篇をみなさんで交読したいと思います。

主は私の羊飼い。 私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ、

御名のために、私を義の道に導かれます。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、 私はわざわいを恐れません。

あなたが私とともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、

私の頭に油をそそいでくださいます。

私の杯は、あふれています。

まことに、わたしのいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。

 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。