2017年2月18日 創世記46:1-27 「導く神」
先日アメリカの大統領トランプ氏と安部首相が対談後、握手を交わしながら、トランプ氏が「あの人達は日本語でいったい何と言ってるんだい?」「Look at me」苦笑いの安部首相を笑顔でじーっと見つめたトランプ氏でしたね~。
今日もイエス様が私達に「Look at me」と呼びかけておられますし、「いつもあなたを見ていますよ」ともおっしゃってくださっています。イエス様から目を離さずにゴールを目指して信仰のレースを歩みましょうと先週お話ししました。今日はその続きです。信仰が回復した父イスラエルが「いざ、エジプトヘ!」と立ち上がり、カナンの地を出発する所でした。その信仰が回復した父イスラエルがエジプトへ向かう途中のベエル・シェバに来た時、主なる神を礼拝しました。ベエル・シャバという地名は、創世記の中で何度か目にしたと思います。
ベエル・シェバという場所が何度も出てくるのは、そこでアブラハムもイサクも祭壇を築き、主に礼拝を捧げ、神の声を聞いたのです。ヤコブの父イサクに主なる神はこう仰せられました。創世記26章24節・25節イサクと一族はベエル・シェバに上って、主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに」イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った」
そのような場所だったからこそ、ヤコブは神を礼拝する中で、死んだと思っていた息子ヨセフが生きている事への感謝を捧げ、ヤコブ自身が悔い改める必要があった事を告白し、主なる神の御心を求めたのでしょう。自分の思いで行動するのではなく、主の御心に従った行動に主の祝福が溢れるのです。
私達もイエス様の御名のもと集められて、一緒に礼拝をしています。主への感謝の心と、聖霊様に導かれ悔い改めながら、また主なる神の御心を求め、霊の耳をもってきていると思います。 礼拝とは捧げる事です。与える事です。このように毎週集まる時に、救われている喜びと感謝をもって集まる事で、心から神への礼拝が捧げられるのです。何かを得るために来るのではなく、また説教者や奉仕者、集まってくる人達のあら捜しに来ているのでもありません。礼拝に来るのは心から神に栄光をお返しした事によって恵まれ、祝福を受けるのです。
主なる神はヤコブに語られました。今日の箇所の2節から4節です。「ヤコブよ、ヤコブよ」と主は声を掛けられました。そして、ヤコブは「はい、ここにいます」と答えました。この答えには「はい、しもべはここにおります。お語りください」という謙虚な姿勢です。
今朝、みなさんと賛美した「しもべは聞きます」関根一夫先生の作詞ですが、もう一度歌詞を確認してみましょう。
「神のみことば 私の中で出来事となり 奇跡が始まる。
しもべは聞きます あなたのみことばを 主よ お語りください。
神のみことば こころの中に希望と愛と 悟りをもたらす。
しもべは聞きます あなたのみことばを 主よ お語りください」
このように、祈りの中で「しもべは聞いております。主よ お語りください」という心の姿勢が必要なのだと思います。
神の言われる事に対して、鈍感だったり、耳を傾けようとしなかったりする事は、神を愛してもいなければ、敬ってもいない、という事です。もし私達の心が物や奉仕、自分の信念などに向いているなら、神がどんなに語ってくださっても私達の霊的な耳はその神の声を聞く事はないのです。
さあ、主に礼拝を捧げたヤコブに神はどんな事を語られたのでしょうか?3節・4節「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下る事を恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう」この神の言葉はどれほど大きな励ましになった事でしょう!「恐れるな、神である私がともにいる」「エジプトで大いなる国民とするから」「必ず故郷カナンへ導くから」「愛する息子であるヨセフが最期を看取るから安心しなさい」
ヤコブの心の中にある「恐れ」を神はご存知でした。なぜヤコブは恐れていたのでしょうか?
この時ヤコブは130歳になっていました。年老いていた事で恐れていた以上に、創世記15章13節で、神がアブラハムに語られた子孫に対する預言の言葉「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう」という内容を覚えていたからです。ヤコブ一族がエジプトに行ってから、もっと苦しい困難に合うかもしれない、という恐れと、エジプトに下る事が本当に主の御心なのかを確かめたかったのです。主なる神はすべてを知っておられるのです。
イエス様はヨハネの福音書16章13節・14節でこうおっしゃいました。「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしている事をあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです」
私達は、どのように神の声を聞き、従う者にされるのか、それは日々の聖霊様との交わりです。そして主の御声を聞いたなら、それに従う者となる事を神は望んでおられるのです。年齢や性別、経験は関係ありません。パウロもヘブル人への手紙3章17節でこう励ましました。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」そして第2コリント人への手紙の6章2節で「今は恵みの時、今は救いの日です」と確信し、神へ心を向けるとき、恐れは勇気と希望に変えられるのです。
ヤコブは自分がそう長くはない事を感じていました。その心の内も神様はご存知で「最愛の息子ヨセフが最期を看取るから安心しなさい」ともおっしゃいました。
私達の生まれる時も、死にゆくときもすべては主の御手の中にあるのです。
ヤコブにとってベエル・シェバで神の声を聞き、力を受けて立ち上がり、エジプトへ下ったヤコブの子孫66人とヤコブ自身とヨセフそしてヨセフの息子2人が加わり総勢70人となります。70は主にある完全数の意味し、イスラエルの民が完全に整えられてエジプトに住むようになった事を示しています。神様の壮大なスケールで歴史が動いている事がわかります。ここでは70人と書かれていますが、実際は女性、子供、しもべらを含めると約300人にもなる大勢がエジプトに移動したのです。ヤコブはそのリーダーとして、また人生最後の大きな決心と信仰をもって故郷カナンを離れ、エジプトへ入りました。この決心はヤコブが神様との信頼関係において与えられたものです。神様が語られた事について誰かにアドバイスを求めたのではありません。確かに聞いた主の言葉に信頼したのです。私達は時々いや、しばしば人にアドバイスを求めたり、アドバイスをしたくなってしまう者です。気を付けなくてはならないのが、その責任がどこにあるのかという事です。イエス様を信じている者として、私達は主に信頼し、主の御心を求め、その中で決心して行動をとれば主は必ず備えてくださるのです。
主を信頼して歩む訓練として、父なる神は私達をしばしば試練を通されます。
水谷 潔先生がお書きになった「いまどきクリスチャンへの24の問いかけ、それって大丈夫?」という本の中で、「リアルに妄想してみた、試練の意味」を紹介します。
何のためにクリスチャンになってからも神様は試練をお与えになるのか?・・・模範解答は、「キリストの似姿に変えられ、神の栄光を現すため」ですが、自分自身に適用して「もし、クリスチャンになって試練がなかったら、将来の自分はどうなるのか?」とイメージした事を、こう紹介しています。
「神様が必要な試練を与えてくださらなければ、自分はきっと高齢者になりながらも、イエス様とは似ても似つかぬ人格に違いありません。きっと自分は困ったじいさんになっている事でしょう。まずは人の話を聞けず、自説ばかりを話しまくり、過去を懐かしんで自慢話、いまの状況に不満を言って、将来については具体的に考えようとしない。若い世代の人や牧師、教会について他人事のように批判しながら、どうすれば良いのかは語りえない。自分の若かりし頃の純粋さと熱意を失い、惰性で歩んでいる高齢の自分。他の人のつまずきとなっている事を自覚できないでいる裸の王様。家庭では依存的で頑固と妻から敬遠され、思春期の孫からは、じいちゃんがクリスチャンだなんて思えないわと言われてしまう・・・」水谷先生のこの妄想を聞くだけで、あーと自分にも思い当たるふしが・・・。これで終わったら惨めですが、大丈夫です。こうならないために程よく試練があるのです。試練によって傷ついた経験を通じて愛は訓練され、悲しみを通過する中で、奪われることのない喜びを発見し、失望の中で決して揺るぎのない平安を体験する事が出来るのです。試練を通じて得た愛と喜びと平安は、人生を豊かにするだけではなく、人々を活かし、魂を潤し、キリストを証しするのです。試練が宝物に変えられる、さらに大きな祝福が与えられる、それに向かって導いて下さる主なる神が共におられるのです。それを思うと、毎日が感動ですね!
イエス様に出会い、人生を変えられた方を紹介します。クラリネット奏者の柳瀬洋さんです。柳瀬さんは、東京芸術大学院時代に日本音楽コンクールで第二位となった方です。クリスチャンになる前は、「俺の右に頗るヤツはいないんだ!」との思いで、必死でテクニックを磨いていたそうです。頼れるのは自分自身だけ、自分の才能と努力によって運命を切り開いてゆくのだと思っていました。いつもそのよう自分に言い聞かせながら、その一方でステージに上がる時には、必ず母が書いてくれた「写経」をお守りとして、内ポケットに入れていたそうです。
ところが、ドイツ留学時代、教授から「あなたのテクニックは、勤勉な反復練習によって培われたもので、本来それはテクニックとは言わず、メカニックと言うのです。メカニックなら機械のほうが正確でしょう。しかし、私たちは心からの歌を歌うのです。そのためのテクニックというのは、むやみやたらの反復練習によっては決して生まれないのです。だから、あなたが私のもとで学ぶというのなら、全く最初からやり直さなければなりません」と言われました。それを言われた柳瀬さんは、がく然として「今まで歯を食いしばってがんばってきた事、あれはいったい何だったのか。すべては無駄だったのか。自分は今まで何を求め、何のためにクラリネットを吹いてきたのだろう」と思わされました。それまではライバルとの競争の中で無我夢中に突っ走ってきたのです。しかし、この教授との出会いにより、それがいかに的外れであったかを思い知らされました。「結局のところ、私が追い求めていたのは音楽なんかではなく名声だったのです」と柳瀬さんは言っています。
日本人留学生が集まる聖書研究会で初めて聖書に触れました。失恋したときに、コリント第一13章のみことば「愛は人をねたまず、自慢せず、高慢にならない」を学び、自分がいかに自己中心的であるかを知ったのです。心の中が混沌とする中で、避け所としての平安を得るには神を信じる事だと気づき、柳瀬さんは神を信じて、自我や罪の心から解放されました。自分で自分を変えることはできませんが、神を受け入れるなら神が内側から変えてくださるのです。
今日の聖書箇所のように、何をするにでも自分の心は脇に置いて、主の御心と導きを求め、主にある喜びの賛美であふれる歩みをする者でありたい、と思います。
箴言3章5節・6節「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」