2017年2月11日 創世記45:16-28「ゴールに向かって」

 

先週は真也先生から「ヨセフを遣わした神」と題して、神のご計画と神は最善しかなさらないという事を確認しました。

 

スイスのクリスチャン哲学者アンリ・フレデリック・アミエルはこう言いました。「生きるという事は、日ごとに快癒し、新しくなる事、また自分を見いだし、回復することである」

今日のタイトルは「ゴールに向かって」です。日々新しくされてゴールに向かって歩んでいると思えたら、心が弾みますね。前回の続きとなる聖書箇所から神の恵みにあずかりたいと思います。

 

ヨセフは兄弟達に自分を明かし、感動の再会を果たしました。飢饉はあと5年続くので、兄弟達もその家族も、そして父もエジプトで養いますから安心してくださいと力強く宣言したのでした。

16節から20節でわかる事は、ヨセフの兄弟達がエジプトにいるという事をパロが聞いて、パロと家臣達は一緒に喜びその上、パロの方から兄弟達を飢饉から救うために全てを備えると約束してくれたのです。パロとその家臣達がヨセフに起きた嬉しい出来事を一緒に喜ぶほどにヨセフは信頼されており、飢饉の状態からエジプトを救い、他国を助ける程に潤っていた事で、ヨセフに対して感謝してもしきれない、ヨセフの家族を助ける事は恩返しになるとパロも考えたのです。様々な試練にあったヨセフはエジプトにおいて謙虚さと主に、そして人に仕える事を学びました。その結果、パロに信頼されたのです。パロがヨセフに約束した事は4つあります。1つ目は「ヨセフの父と全家族をエジプトに招く」2つ目は「ヨセフにエジプトの最も良い地を与え、最も良い食料を与える」3つ目は「年老いた父、弱い妻達や子供達に車を用意する」4つ目は「エジプトの最も良い家財を与えるので、カナンの地の家財は置いて来なさい」という事です。

イエス様を信じる者は神の子とされ、祝福されます。天の父なる神の祝福は「最も良いものを与えてくださる」「弱い者に助けを与える」「天国に招きいれてくださる」そして「天国に最も良い住まいを用意して下さっている」という事です。ヨハネの福音書14章2節3節「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」とイエス様がおっしゃった通り、やがて私達は約束の地「天国」に行きます。私達が天に引き上げられるのです。その時には、この地上のものは持ってはいけません。パウロもコロサイ人への手紙3章1節2節でこう勧めています。「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」

イエス様を信じる者には、決して朽ちることのない資産が天に蓄えられている事、天にあるすべての霊的祝福をもって祝福されている存在である事、すなわち罪の赦し、永遠のいのち、神が共にいて下さる人生が与えられているのです。

 蘇られた主イエス様は、今は天において神の右に座しておられ、今日も私達のためにとりなしていて下さっているのですから、その恵みに感謝しましょう!

21節から23節にあるようにパロが命じた通り、ヨセフは兄弟達に車と食糧を与え、特別な上着と、特にベニヤミンには銀300枚と晴れ着を5枚、そして故郷にいる父へは沢山最も良いお土産を贈りました。そして24節でヨセフは兄弟達に「途中で言い争わないでください」と言ったのです。なぜヨセフはそう言ったのでしょうか? 兄弟達がヨセフの事で互いに攻め合ったり、羨んだりしないで、優先順位をしっかり考えて行動するように、という思いからです。優先順位は、カナンにいる父イスラエルをエジプトに連れて来る事です。私達の人生も優先順位を誤ると、混乱してしまいます。私達の優先順位は何でしょうか?

神のご支配を優先して求めているでしょうか? 私達は「主の祈り」で「御国が来ますように」と祈ります。確かに、「主のご支配の国が来てください」と求める祈りですが、イエス様は神の国についてこうもおっしゃいました。ルカの福音書17章20節・21節「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』『あそこにある』とか言えるようなものでもありません。いいですか。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

 神の御支配は、私達の生活のただ中にもう既にある、ということです。「霊的な目をもって見るならば、神はいないのではないかと思われるような出来事が多くあるこの世の中に、神は支配なさっているのだ」という意味なのです。また、この表現は「神の国はあなた方の内にある」とも訳する事が出来、「私たちの内に、神の国はある」ということなのです。神の国とは主イエス様が私達の心の主の主、王の王として迎えられ、イエス様の愛と平和の支配の中に、聖霊様の満たしの中にあるのです。

 

ヨセフが兄弟達に「途中で言い争わないでください」と命じたように、私達にも神がそのように命じておられます。ヨハネの福音書13章34節「あなたがたに新しい掟を与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」

私達はクリスチャンとして、この地上で果たすべき優先順位があります。それは主イエス様の愛の命令に従う事です。私達は、以前は罪人でしたが、神の憐れみ、恵みによって救われ、同じ神を信じ、礼拝しています。そして同じ目的地である天国を目指しています。イエス様の愛の命令に従うための秘訣は聖霊様に満たされ続ける事です。そうしたら、愛する事、赦す事はセットでついてきます。「神の国はあなたがたのただ中にある」という御言葉を心に留めて歩みたいと願います。

 

こうしてヨセフの兄弟達はエジプトから故郷カナンへ、父ヤコブのもとへ戻り、「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのです」と告げました。それを聞いた父ヤコブは「とてもそんな信じられない!」と気絶しそうなくらい驚いたのです。父ヤコブが落ち着いた頃を見計らって息子達はヨセフの言った事、45章の4節から13節にある通りの内容を伝え、父ヤコブは聞いただけでは信じられず、牛車を見てやっと正気に戻り、元気になったのです。

 

人はどんなに良い知らせを聞いても、見ないで信じる事はとても難しいという事がわかります。イエス様の弟子たちもそうでした。復活されたイエス様と最初に会ったのは、マグダラのマリヤです。マルコの福音書16章に書かれていますが、彼女が弟子達の所に行き「私は主にお目にかかりました」と告げましたが、それを信じようとしなかった、と書かれています。復活されたイエス様は食卓についていた11人の弟子達の所に現れて、弟子達の不信仰と頑なな心を叱責されました。なぜなら、蘇られたイエス様を見た人達の話を聞いても信じなかったからです。その後、イエス様が食卓の部屋を出られた後に来たトマスは、他の弟子たちが「私達は主に会いました」と言っても信じませんでした。そして「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘の所に差し入れ、また、私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言ったのです。その後8日間、弟子たちは戸を閉めて部屋に閉じこもっていたところにイエス様が「シャローム・平安があなたがたにありますように!」と言いながら入って来られ、疑い深いトマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわき(腹)に差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者となりなさい」とおっしゃいました。そのトマスは「私の主。私の神」と最高の信仰告白をしたのです。「私の主、私の神」とは、イエス様こそ心を注いて従うお方であり、すべてにおける主であり、神であることを認める告白です。イエス様はトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と言われました。信仰の本質は「見ずして信じること」だと教えるために、イエス様はトマスのために現れて下さったのです。

今、ここにいる私たちはイエス様を救い主として信じる人達を通してイエス様を信じています。つまり、見ずして信じているわけです。蘇られたイエス様の証人である使徒達が記した聖書を信じています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」とパウロがローマ人への手紙 10章17節で書いているように、誰かが伝えてくれたので、ここにあるのです。

 父ヤコブは、ヨセフが生きている話を聞いて信じられなかったのですが、送られた牛車を見て、元気づけられました。元気づけられるは英語ではrevived となっています。回復して元気になったのです。信仰の回復です。ですから、27節ではヤコブと名前が記されていましたが、28節ではイスラエルと記されています。自分の思いで動いている時にはヤコブと記されて、信仰に基づいて動いている時はイスラエルと記されているとは、ヤコブの性格がわかりやすいなぁ、と親しみを感じますが、信仰が回復した父イスラエルは28節「それで充分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは! 私は死なないうちに彼に会いに行こう」と立ち上がりました。

このときイスラエル自身は自分の死期が近いと認識していました。死ぬ前にしておくべき事があると準備をしたのです。

皆さんも準備は出来ていますか? イエス様を信じて、天国へのチケットは手にしていますか? 死ぬ前にしておくべき事は何でしょうか? ひとりひとり違うと思いますが、信仰の先輩パウロも自分の死が近くなってヘブル人への手紙の中でこう言いました。ヘブル人への手紙12章1節「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか」と勧め、励ました。人生の長さは人それぞれです。「人生はある意味運動会の障害物競争のようですが、信仰の勝利者となるために、聖書に出て来る人達をお手本にして、神に信頼して天国へ向かって走り続けなさい」そして、「その信仰のレースにふさわしい走りやすい恰好で、走りなさい」と勧めています。「走りなさい」と聞くとなんだか息切れしそうですが、この言葉は「情熱を傾けなさい」という意味です。その信仰のレースを走るために身軽になりなさい、と勧めています。「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」と。重荷とは悪いものだけではありません。過去の栄光が前に進むために重荷になる事もあります。「昔はこうだった・・・」「昔はよくこういう奉仕してね~」とか。今はどうですか? それから「誰かを赦せない」という重荷もあります。赦す、人の悪を思わないという事は心を健康にします。また「まとわりつく罪」とは「足を引っ張る罪」とも訳せます。前に進みたい、けれど私達をうしろに引っ張ろうとする力です。それから解放されるために、ヨハネの手紙第1の1章9節にはこう書かれています。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」神の前に心を明け渡すと、神はその罪を赦し、きよめてくださるのです。

「まとわりつく罪を捨てて」とは「罪をかなぐり捨てること」なのです。重荷や罪を抱えたまま人生を進んで行くと、私達の人生は壊れてきます。なにより神との関係が壊れていきます。ですから信仰のレースを身軽に走り、天国を目指すために、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と勧めているのです。

父イスラエルが「よし、わかった。ヨセフは生きている。ならば死ぬ前に私は会いにいくぞ」と行動を起こしたように、イエス様を信じて生きていく事に対して迷いがあるなら、それをかなぐり捨てましょう!

 

「死の現実にしっかりと向き合う」ということは、「いかによりよい生き方をするのか」というという事です。

ドクターの日野原重明先生のお名前は何度も聞いたことがあると思います。聖路加病院の名誉院長であり現役医師です。聖路加病院といえば昨年三笠宮崇仁(たかひと)親王が召された病院ですね。そして日野原先生、現在105歳。先生が72歳の時に書かれた「死をどう生きたかー私の心に残る人々ー」という本があります。彼が臨床医として務めた40年余りの間に、死をみとった多くの方の中から、印象深かった人達21名の死を取り上げて、一冊の本になっています。その最初に登場する方の死を通して、日野原氏が医師としてどのように死という現実と真剣に向き合うようになったキッカケとなった16歳の少女の事が取り上げられていますので、ご紹介したいと思います。  

日野原先生が京都大学医学部を卒業して、最初に勤務した病院で最初に受け持った患者が、16歳の結核を患った少女でした。この少女には父親がなく、母親がこの娘の入院費や生活費を稼ぐために、娘の病気の世話に来院して付き添うことが難しく、二週間に1回くらいの割で、それも日曜日に見舞いに来るのが精一杯でした。

主治医の日野原先生は、日曜日は教会の礼拝のために、日曜だけは医師の仕事を休んでいました。ところが、この16歳の娘はよく日曜日になると不思議と高熱と腹痛になっていたのです。あるとき日野原先生は、少女が『「日野原先生は日曜日だけはいつも病院に来られない・・・」と寂しそうに話していた』、という事を同僚の医師から聞かされました。

ある日曜の朝、彼女の容態は早朝からひどく悪化し、嘔吐が続き、日野原先生が連絡を受けて病棟に駆け付けた時には、腸閉そくを起こしてひどく苦しんでいました。彼女の苦しみを止めるにはモルヒネ注射しかないと判断して、普通の二倍の量を注射しました。彼女の苦しみが収まるのを願って、彼女の脈拍を数えながら、「今日は日曜日だから、お母さんが午後から来られるから頑張りなさいよ」と一生懸命に励またのです。モルヒネが効いて、彼女の苦しみは軽くなったとき、少女は大きな目を開いてこう言いました。「先生、長い間大変お世話になりました。日曜日なのにも関わらず、先生に来ていただいてすみません。でも今日は、すっかりくたびれてしまいました」と言って、しばらく間をおいた後、「私は、もうこれで死んでゆくような気がします。お母さんには会えないと思います。・・・先生、お母さんには心配掛け続けで、申し訳なく思っていますので、先生からお母さんに、よろしく伝えてください」 彼女は日野原先生に向かって手を合わせてお願いしました。

日野原先生は、弱くなっていく脈を気にしながら、死を受け入れたこの少女の自分への感謝と別れの言葉に対して、どう答えて良いかわからず「あなたの病気はまたよくなるのですよ。死んでゆくなんて事はないから、元気を出しなさい」と言った途端に、彼女の容態は急変し、血圧はひどく下がり、眠ったようになりました。先生は彼女の耳元に口を寄せて大きく叫びました。「しっかりしなさい。もうすぐお母さんが見えるから」しかし、彼女の呼吸は止まり、永遠の眠りにつきました。

 日野原先生が臨床医として今までに多くの方の死を看取った患者の中で、これが死と向き合った最初の経験でした。後に先生は次のように述べています。なぜあの時に「安心しなさい」と言えなかったのか。「お母さんには、あなたの気持を十分に伝えてあげますよ。」となぜ言えなかったのか。脈をみるよりも、どうしてもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか、と・・・。

この経験から、日野原先生は自分か担当する患者が重い場合には、日曜日でも、必ず、病院に出かけて患者を一度診る事が習慣となったそうです。先生はこうおっしゃっています。「死を受容することは難しいと思う。しかし16歳の少女が、死を受容し、私に美しい言葉で別れを告げた事実を、私は若い医師達に伝えたい」

 

私達に与えられた時間はどのくらいあるでしょうか?ずーっと続く気がしますが、限られています。「私の人生を導いてくださっているのは、主イエス様です」と明確に宣言し、ゴールを目指しましょう。

 

お祈りします