2017年1月7日 創世記42章後半「信仰の歩みに必要なもの」

 

新年あけましておめでとうございます!

皆様にとってお正月はいかがでしたでしょうか?「家族とゆっくり過ごした。」または「逆に忙しかった!?」という方もいらっしゃると思います。「食べ過ぎた・・・」という方もいらっしゃるのではないでしょうか? 日本はお正月特有の文化と食べ物がありますね!家族で集まりおせちを食べる!いいですね!

 

食べ物といえば、かの有名な宗教改革者、マルチン・ルターの愛犬の話です。その犬が、ルターが食事をしているテーブルの下でじっと待っていたそうです。何をしていたのかというと、食事中にルターが何かおかずを、肉片を下に落としてくれないか、と待っていたそうです。それを見たルターはこう言ったそうです。「この肉切れを待つ犬のように祈れればいいのだが。彼の思いはひたすら肉に向けられ、それ以外の事は何も思わず、願わず、望んでいないのだ。」どのようにして祈るべきなのかを、愛犬から学んだと言っていたそうです。(笑)

私たちもこの犬のように貪欲に神様の祝福を願ってみてはいかがでしょうか?そのように祈る1日を積み重ねる一年は、相当違った一年になるのではないでしょうか?私たちも今年一年一身に神様を求めていきたいと思います。

 

さて今日の箇所はまさに先ほどの犬のように神様を一心に見つめた人物のストーリーです。ヤコブの11番目の息子、ヨセフのストーリーです。

前回は42章の前半を学びましたが、今回は29節以降の後半を学びます。今日の箇所では「信仰生活に必要な事」を教えてくれる箇所です。

 

42章において何が起きたのかというと、当時ヤコブやその兄弟達が住むカナンを含め全世界レベルでの大飢饉が起こったのです。世界中の国々はこぞって食物や資源が豊富であったエジプトに向かったとあります。その時のパロの次の位にいた、事実的に言えば大統領、総理大臣的な地位にいたのがヤコブの息子ヨセフでした。そしてヤコブの息子達も食物を求めエジプトに降ったのでした。ヤコブは12人の兄弟のうち10人の兄達をエジプトに向かわせた。一番下のベニヤミンは残しておいたのです。エジプトにつき兄弟達はエジプトの権威ある方にひれ伏します。それこそ兄達がエジプトに売ったヤコブの11番目の息子ヨセフだったのです。でも兄達はそれにきずきません。でもヨセフはきずきました。そこで眼の前にひれ伏す兄達に「末のベニヤミンを連れてきなさい。そうでなければあなた達は間者だ」、つまりスパイだと言ったのです。そこでシメオンをエジプトに残し後の9人の兄弟達はヤコブのところに返しました。ヨセフは9人の兄弟達にそれぞれ袋を渡し、穀物、食料そして銀をそれぞれにわたしたのでした。道中、その袋の中を見た兄弟達はびっくりしたんですね。穀物や食料それだけではなく、なんと当時効果であった銀が入っていたんです。兄弟達は「穀物や食料は嬉しい。でも銀まで入っていたら自分たちが盗みもってきたと思われてしまう。スパイ容疑だけではなく、盗人にされてしまう・・・」

 

なぜヨセフは自分の正体を明かさずに、このように少し兄弟達を混乱させるような事をしたのでしょうか?自分を奴隷としてエジプトに売った兄達が憎かったから、ちょっと意地悪をしたのでしょうか?そうではありませんね。実際に今日の箇所でもヨセフは兄弟達に会った後、24節で泣いています。これは今まで会えなかった兄弟達に会う事が出来たという嬉しさからの涙でしょう。ではなぜ「一番末の弟のベニヤミンを連れてきなさい」また袋の中に銀を入れたりしたのか。ヨセフはエジプトのパロの次を任せられるぐらいに人です。おそらく頭も切れる人だったのでしょう。そんな彼がしたからこそ意味があったに違いありません。

その理由の一つは兄達に自分たちがした事と向き合ってほしかったのでしょう。案の定42:21で兄達は「私たちは弟の事で罰を受けているのだなあ」と言っています。兄達はこの時に自分たちが過去にした事と向き合ったのです。

なぜベニヤミンを連れてくるように言ったのでしょうか?それはおそらくヨセフ直系の弟がベニヤミンだったからです。その弟は本当に無事なのか?ヨセフは兄達だけではなく、弟にも、そして父ヤコブも本当に無事なのか知りたかったのでしょう。

 

ヨセフがこのようにした理由それだけでしょうか?そうではありませんね。もしただ兄達に悔い改めさせたかったら、自分の身分を明かし顔と顔を合わせ謝罪させるはずですね!「謝りなさい!」ってね。でもヨセフはただ謝らせたかったのではないのです。また、ただ家族みんなに会いたい、それだけではなかったのです。ではこの一連の事でヨセフは何がしたかったのか?それは兄弟達に「神を畏れる事」を知って欲しかったのです。

42章18節でも「私も神を恐れるものだから」ヨセフはいつも神に信頼するものでした。自分が奴隷として売られても、牢獄にいても彼の口からは不平不満が出てくるのではなく、ただ神に信頼したのです。神を畏れていたのです。

 

今日の29節以降もヤコブと兄弟達はベニヤミンを連れて行くか?という事を話し、もめています。「弟が取られてしまうのではないか?」また兄達の袋には銀が入っていたのです。「私たちが盗人扱いされて捕まり命が危ないのではないか?」彼らは恐れおののいている様子を今日の箇所から伺えます。この箇所において「神に信頼する」という言葉や「神を畏れる」という言葉は聞こえず兄弟達からは28節「神は私たちに一体何という事をなさったのだろう」と言うだけでした。しいて言えば「ただ私たちは食べ物が欲しかっただけなのに、弟も家族も私たちも命が危ない。何でこんな事になってしまったのだろう」と言っているのです。

私たちの人生にも「何でこんな事が」という出来事がありますね。私たちの人生には3つの坂があるといいます。「上り坂、下り坂、そして・・・マサカ! 」時にはそして真っ逆さま!

なんてね。そして私たちは恐れを感じる時もあるかもしれません。でも私たちはそのようなものに恐れを感じる必要はないのです。むしろ私たちがおそれるべき方がいらっしゃいます。それは 天地万物を創造した私たちの神様であるという事です。

 

私たちの信仰生活において「主を恐れる」事は大切な事です。日本語で神を恐れる、という言葉を聞く時に「神様は怖い」というイメージを持つ方がいらっしゃいます。「良い事をしなくては何か天罰が下る・・・」確かに怖いのであればそうかもしれません。ですが、この「神を恐れる、主を恐れる」という言葉は聖書において、何百と出てくる言葉です。実は恐れるという言葉は旧約聖書のヘブル語では8つの違う言葉が使われているそうです。また新約聖書にも恐れるという言葉は出てきますが、これも異なった4つの言葉が使われているそうです。(例えば愛という言葉には4つの言葉が使われているという事は有名な話ですね。アガペ、フィレオ、ストルゲ、エロス愛は愛でも、いろいろな愛に区別されているのです。)聖書における恐れるという言葉は大きく二つに分ける事ができるんだそうです。それは「尊敬する、敬意を表す」 、という意味と「怖くて恐れる」です。「神を恐れる、主を恐れよ」の恐れるは「尊敬する、敬意を表す」の方なのです。主を恐れる事、を、聖書の中の多くのリーダー達が進めています。例えばモーセの次にイスラエルの指揮を任されたヨシュアです。

ヨシュア記24章14節「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい」

またイスラエルの三代目の偉大な功績を残したソロモン王もこう言っています。伝道者の書12章13節「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」

なぜ彼らはこう言ったのでしょうか? それは彼らがどんな試練に在った時も、彼らが敬意を払い信頼した神様がいつも救い出してくださったからです。だから私たちの人生にどんな試練や困難があろうとも、「恐れる、怖がる」必要はないのです。むしろ「神を恐れる敬意を払う、主に信頼する」事こそ全てを最善に導いてくれるのです。

 

ジェシカ・コックス(Jessica Cox)さんは、先天性異常で両腕の無いままこの世に生を授かりました。しかし同時に生まれ持った好奇心と、何事も成し遂げる強い意志も備え持っていました。しかしジェシカさんは単に精神的に強いという人ではないそうです。ジェシカさんを支えてくれている存在がいらっしゃるから、今の自分がいるとおっしゃっています。それはこの天地を創造した神様です。だからこそジェシカさんは何にも恐れる事はないのだそうです。両腕がなく生まれたジェシカ・コックスさんは、米国で初の足だけで操縦する自家用飛行機のパイロットです。(方向舵を操作するペダルのない、単発機エアクーペを操縦する)。また、米国テコンドー協会で、両腕がない人では初めての黒帯です。 

 ジェシカさんによると、成功とは、必ずしも飛行機を操縦したり、テコンドーで黒帯を取る事ではなく、神さまと共に歩む信仰の旅路なのだと言います。ジェシカさんは、体が健常者と異なる事から来る心理的、精神的な問題を神さまにお委ねしました。そして彼女は、「神に全てをお委ねし、他者と違っているという事実を、神のご栄光を表す機会として、用いていただけたのです。私たちは、自分たちの人生や、努力して立ち向かっている事柄、苦闘している事などを通して、神への信仰を強めていただき、神により近付かせていただくために用いる事ができます。そして、最後には、それらを神のご栄光を表すために用いる事が出来ます」と言います。 

 ジェシカさんは現在、多くの人にその信仰によるチャレンジ精神を身につけてもらおうと、講演して回り、同じように障害を持つ人々を訪れて、神の恵みを分かち合っています。

 

神を恐れ信頼する者を、神様は必ず祝福して下さるのです。

 

そして、もう一つ今日の箇所から学べる私たちの信仰生活において大切な事は、「自分自身を主に捧げる」という事です。

今日の箇所の36節では、ヤコブがベニヤミンをエジプトに送る事を渋っています。しかし37節でルベンが連れてこれなかったら自分の子供を殺してもいいです。大丈夫です。きっと連れもどしますから!とヤコブに言います。でもヤコブはそんな言葉も耳には入らず38節で「私の子はあなたがたと一緒に行かせない」と断固断ったのです。

これは親になるとわかる事ですが、確かに自分の息子は大切です。ヨセフもいなくなってしまった。シメオンも捉えられている。ここで愛するベニヤミンを取られたら生きている心地がしない・・・というヤコブの親心でしょう。

この後どうなるかというと、次の章でベニヤミンはエジプトに行く事になったのです。

ここでヤコブは気づかなければいけない事がありました。それはもしここで自分の思いや感情を諦めなければ、主の計画は進まないという事でした。確かに親として子は大切です。でもここで何よりも信頼しなければいけなかったのは、子を捧げなければいけないという不安や恐れはある。けれども、主は必ずそれを良しとして下さる、最善に導いて下さる、という信仰だったのです。

この子を捧げても主に信頼するという信仰を持っていたのが、ヤコブのおじいちゃんアブラハムでした。もうすでに学んだ箇所ですが創世記の22章でアブラハムは一つの試練にあったのです。アブラハムとサラには子供ができませんでした。でも老年になった2人に子供が与えられたのです。イサクです。でもある日、神様がこうおっしゃったのです。

創世記22:2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとイサクをささげなさい。」

せっかく神様が授けて下さった子供を神様が「捧げなさい」とおっしゃったのです。皆さんだったらどう思いますか?「なんでそんな事を!?」とか「だったら初めからくれなければよかったのに!?」そう思っておもおかしくない箇所かもしれません。アブラハムはどうしたのかというと「翌朝早く出かけた」とあります。そして息子を捧げようとすると神様が「待ちなさい!」と声を掛け、そしてそこには一頭の雄羊がいてそれを捧げた、とあるります。この一連の事を見た神様は何とおっしゃったかというと、アブラハムに対して「祝福する!」と約束したのです。

創世記22:16−18「これは主のみ告げである。私は自分にかけて誓う」あなたが、この事をなし、あなたの子、あなたの一人子を惜しまなかったから、私は確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう.そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取ろう、あなたの子孫によって、地の全ての国々は祝福を受けるようになる。あなたが私の声に聞き従がったからである。

つまり神様はアブラハムに対して何を求めていたのかというと、息子をささげる、とか生贄ではなかったのです。主の声に聞き従うか?従わないかという事でした。それにアブラハムは合格したのです。そして主の祝福を得て行ったのです。

ヤコブはのちにベニヤミンをエジプトに行かせます。でもこの時自分の声が一番大きくなってしまったのです。でもヤコブが聞くべき声は確かにヤコブに語りかける主の声であったのです。

私たちもいろいろな声が聞こえます。他人の声、自分の声。でも私たちがいつも聞き従うべき声は主のみ声です。でもその主の声に聞き従う時に一番邪魔になるのが自分の声です。むしろ自分自身と言ってもいいでしょう。アブラハムはなぜ主の声に聞き従う事が出来たと思いますか?それは主の声を聞いた時にその声だけに聞き従い、自分の思いを全てを主に捧げたのです。

私たちの信仰生活においても主の声を一番大にして聞くべきです。例えば、主の声とは具体的にみ言葉ですね。

みなさんはみ言葉、聖書の言葉を読む時にどのように読んでいるでしょうか?「ただの良い言葉」でしょうか?この聖書の言葉は神様からの生きた言葉です。 だから私たちの価値観とか、考えを持って読むべきではないのです。なぜかというと、私たちが私たちの価値観を持って読むと「いい言葉だな。でも自分には無理だな」とか「これは現実的に無理でしょう」という風に受け取りかねないからです。

私たちはみことばを読む時に「今、神様が私に語ってくださっている」と主導権を神様に渡し、その御声にただ耳を傾けるべきです。 

 

詩篇1:2−3「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」

私たちを生かす、成長させる言葉なのです。その自分の思いを主にささげ、ただ御言葉を自分の内に住まわせる事によって、私たちは生かされるのです。

1コリント10:31「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」という聖書箇所があります。この言葉は「どんな時にも神中心に、そして神様の素晴らしさを伝えるためにしなさい」という意味です。

ジョン・C・マクスウェル牧師という方がいますがこの方は『「戦う自分」をつくる13の成功法則』というご自身の本の中でいつでもいつでも神中心に生きる事の大切さを教えています。

「人を利用しようとばかりするこの世に巻き込まれないためには、一般の価値基準よりも高い、聖書に基づいた価値基準を持つべきである」つまり私たちは「み言葉中心にどのように生きればいいのかをいつも考えるべきである」という事ですね。そしてジョン・C・マクスウェル牧師は、間違った方向に流されそうになる時、次のように問いかける事にしているといっています。 

ジョン・C・マクスウェル牧師〜自分への問いかけ〜

一. 何かを隠していないか。 

 (イエス様の十字架によって赦していただく事を信じる。) 

二. 誰かを傷つけていないか。 

三. 他人から見たらどう見えるか。 

四. 相手と直接話し合ったか。 

五. 自分の子どもだったらどうしろと言うか。

これらの一つ一つは聖書の箇所を思い起こさせてくれるような事ですね。

また日本人の牧師の水谷 潔先生という方が『痛おもしろ結婚塾』という本の中でも「結婚においても第一に考えるべき事は神に栄光をお返しする事である」といい、御言葉に基づく結婚観を持つべきだと言っています。結婚に関して、水谷 潔牧師が『痛おもしろ結婚塾』でおっしゃっているのは次の事です。

• 目的―「自分の幸せのための結婚」ではなく「神の栄光のための結婚」

• 基本発想―「自分中心」ではなく「神中心」

• 結婚相手―「自分を幸せにすべき存在」ではなく「共に神の栄光を現すためのパートナー」

• 相手の不快な言動―「目的違反ゆえの不満、怒り、失望」ではなく「同志ゆえの寛容、忍耐、希望」

• 夫婦関係の展望―「感情的反目による問題の継続」ではなく「目的共有による発展、成長」

• 結婚生活幸福度―「低くなりがち」ではなく「高くなっていく」

 

いろいろ参考になるような事ですね。これは結婚している人も、まだしていない若い世代も知っておくと良いと思います。

 

このようにして私たちは御言葉を聞くだけではなく、私たちの生活に適応していくという事も大切です。

 

今年もこれまで以上に主に信頼し、御言葉を通して成長していきましょう。