2016年8月20日 創世記30:25-43 「主の祝福と知恵によって」

 

前回は、レアとラケルの二人の確執を通じてそれでも神様の憐れみと祝福は尽きることなく、神のご計画の中に私達は置かれているのだという事を、学びました。

 

今日の聖書箇所から「ヤコブとラバンの取引」「ヤコブの知恵」という視点から「主の祝福と知恵」についてご一緒に学んでいきたいと思います。

 

ヤコブはひたすらラバンに仕え14年、ラバンの二人の娘と女奴隷との間に11人の男の子と1人の女の子を設けたので、もうこの地にとどまる理由はない、そして十分に働いてきた。しかしヤコブとラバンの契約が養子縁組による親子関係になっている限り、ヤコブはラバンが死ぬまで独立して財産を所有する事は出来ないので、その契約を解消したいと訴えました。25節26節「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。私の妻たちや子どもたちを私に与えて行かせてください。私は彼らのためにあなたに仕えてきたのです。あなたに仕えた私の働きはよくご存じです」

ヤコブは将来が不安になったのでしょう、故郷のカナンの地へ戻りたいと申し出ましたが、狡猾なラバン、そうは問屋が卸さないのです。働き者のヤコブを手放したくないラバンは27節でこう言いました。新共同訳の聖書から読みますと「もし、お前さえ良ければ、もっといてほしいのだが。実は占いで、わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていることが分かったのだ」ラバンは主を礼拝するのではなく、占いや偶像礼拝に頼る自己中心的な考えの持ち主だったという事が分かります。ここの占いについてヘブル語では「ナホッシュ」蛇を使った占いですが、それを通じてヤコブの神が祝福を与えてくれているのだという事が分かったと言いました。その祝福を失いたくないので、「あなたの望む報酬を支払う。望みは何だ?」と申し出ました。しかしヤコブは「これは主の祝福の結果ですが、いつになれば自分の財産が持てるのでしょうか? もし1つの条件をのんで頂けるのであれば、喜んで働きます。その条件はまだらやぶちの入った羊と黒い毛の羊をすべて分けますから、それを自分に下さい。白い羊はあなたのものです。やぎもまだら毛とぶちは自分にください。後になって報酬を見たときに私の正しさがあなたに証明されますように」と申し出たのです。中東の羊は白、ヤギは黒かこげ茶が普通でしたから、ヤコブの要求したまだら毛やぶちの羊やヤギ、また黒の羊は、ごくまれにしか見ない少ない数のものでしたから、ラバンはあっさり承諾しました。そのうえ、ラバンは自分の息子達にそれらを飼わせて、ラバンの所有の家畜と混ざらないように、またこれ以上にヤコブの所有が増えないようにと3日の道のりの距離を置いたのです。どこまでも意地悪で腹黒いラバンです。それとは対象的に控えめな要求をしたヤコブ、そこには主なる神は必ず大きな祝福を与えて下さるという信仰があったのでしょう。正直で開拓精神が旺盛なヤコブに主は応えて下さるのです。ヤコブの信仰の勝利です。

パウロはラバンのような意地悪で自己中心的な人にどう対応したら良いのかをこう教えています。ローマ人への手紙12章21節「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」

 またイエス様もマタイの福音書5章9節で「平和をつくるものは幸いです。その人たちは神のこどもと呼ばれるからです」とおっしゃいました。これは神との関係を修復し、その神との愛のある関係によって、さらに人間関係においても平和をもたらす者は幸いだとおっしゃったのです。その解説としてマタイの福音書5章43節から48節でイエス様はこうおっしゃいました。『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

私達は、決して完全ではありません。この教えに従えるように聖霊様の助けを求め続ける必要があるのです。

ヤコブはラバンの悪意に対しても、悪で応じるのではなく、むしろ少ない数の羊やヤギからのスタートを選びました。私達の人生も同様に不安定な人生です。ある時は良くて、ある時は困難が続きます。「安定しているときは生前と死んだ後でしかない」とアメリカの実業家アール・ナイチンゲールは言いました。「不安定こそ人間本来の姿であり、だからこそ自立を促し、生きがいと課題を提供してくれるのだ。不安定こそ人間を奮い立たせ、最高の成果を与えてくれるものなのである」そういう中におかれているからこそ、私達には「祈る」という最高で最強の手段が与えられています。

 

今日の聖書箇所43節ではヤコブは知恵が与えられ、「大いに富み、多くの群れを、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった」と書かれています。どのような知恵だったのかというと、37節から41節にある方法をとってヤコブが期待したように家畜が増えたのです。この方法は当時、この地方に言い伝えられた迷信で、さかりの時に目から刺激を受けると胎児に影響すると考えられていたので、ヤコブは一生懸命にポプラやアーモンド、すずかけの木の若枝をとっては家畜に見せたのです。迷信は迷信でしかありません。ヤコブが豊かになった背後に、神の憐れみと祝福があるのです。

情報が溢れ、なんでも苦労なく手に入る時代にあって、知恵や思慮深さがより大切であり

それを求めていく必要があるのではないでしょうか?

 

新約聖書のヤコブの手紙1章5節には「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」と書かれています。皆さんが大きな決断しなければならないとき、あなたはどうしますか? 自分には決定を下すだけの知恵がないと感じるとき、だれにアドバイスを求めるでしょうか?

16代アメリカ大統領、アブラハム・リンカーンはいつでも神の前にひざまづく人だったと言われています。「私は主の導きをたくさん経験している。私が何か自分の意志以外の力に左右されたことが、あまりにもたびたびあるので、私はこの力が神から来たものだということを疑わない。私が自分の取るべき道をはっきりと決定した瞬間、どういう理由でそう決めたのか分からないことがたびたびあった。全能の神が私にある事をするように、またはしないように望まれる時、神はそれを特別な方法で私に知らせてくださる。そのことに、私は大いに喜び感謝していた。神に相談している間に心が軽くなるのを感じる時、上からの道が示されるのだった」 と言っています。

「知恵」というのは、ヘブル的にいうと「実際生活で正しいことを行うために必要とされるもの」です。そのような知恵を持っているなら、試練に勝利することができます。

「知恵に欠けた人がいるなら、知恵が与えられるように神に願い続けなさい」と聖書は勧めています。神は、だれにでも惜しげもなく与えてくださる方ですから、この願いは必ず聞かれます。私たちの祈りは、祈ったとおりに聞かれる場合もあれば、そうでない場合もあります。しかし、この祈りは「必ず聞かれるという約束を伴った祈り」ですから、必ず聞かれます。「少しも疑わずに、信じて願いなさい」と強調しています。神の知恵を求める者には、それにふさわしい信仰が求められます。その信仰があれば必ず聞かれると、聖書はそう約束しています。

 

今年の3月、このヤコブが育てたとされる羊の種が、カナダからイスラエルに送られることになりました。羊のブリーダーをしているカナダ在住でユダヤ人のジェナ・ルインスキーさん、ジル・ルインスキーさん夫妻羊が歴史的発祥の地で生息できるよう、イスラエルに輸出する試みを行っています。お二人の働きを通じて輸出法に関するカナダとイスラエルの2カ国間の数年にわたる協議を経て、希少な羊130頭「ぶちとまだら毛の羊」がイスラエルへと送られることになりました。「イスラエルへ送られる羊は、歴史的、教育的目的のために利用して欲しい、その羊の種の聖書的な重要性を学ぶため、羊の種を保護し、もともとの利用方法に戻すことに役立てたい」とお話しされています。羊から刈り取った羊毛でツィーツィート(祈りのための房)やシャツ、祈りのためのショールなどの宗教的衣料を生産する機械を設置し、羊の角は、ショファー・祭事用のラッパのような楽器の材料となります

世界で最古の種であることから、ヤコブの羊が「世界でぶちやまだらのある羊を生む唯一の羊の種」だとジルさんは述べています。現在5千頭ほどしか生存しておらず、ヤコブの羊は2千年前の古代イスラエルの遺物として役立つだろうと期待しているそうです。

「残念なことにこのヤコブの羊の数は年々減少していますが、イスラエルには現在、シリア・アラビア砂漠が原産のアワシ種の羊しかいません。ヤコブの羊は古代イスラエルの遺産であり、ヤコブとラバンの物語が現実に起こったことを証明しています」とルインスキーさんご夫妻は話しています。

 ヤコブを祝福した神の残されたしるしである羊が大切に受け継がれている事は、とてもうれしい事ですね。

 主の祝福と知恵によって、私達も、どんな時にも主を賛美し、神の力に信頼し、感謝する心を表したものです。

 

詩篇46篇7節また11節には「万軍の主はわれらと共におられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」