2016年7月30日創世記29:1-30「たとえ人間の策略でも・・・」
前回は初めて親元から自立し孤独感を味わったヤコブが、主に出会い、主がいつも共におられる事を体験し、信仰の歩みを始めた箇所から学びました。
そのヤコブに新たな出会いがありました。叔父のラバンのいる場所へと向かう長い道のりの中、ハランの近くの井戸のそばで羊に水を飲ませるために来ていた羊飼いの女性ラケルに出会い、ラケルが叔父ラバンの娘だとわかると嬉しさいっぱいで挨拶の口づけをしました。荒野のひとり旅の果てにやっと会えた親戚の人たち。とっても嬉しくて、泣き出す程でした。そしてラバンに歓迎され滞在したのです。
ラバンはヤコブの働きぶりをみて一か月ほど経ってからこう言いました。リビングバイブル訳で紹介しますと15節「ヤコブ、甥だからといって、ただで働いてくれることはないんだよ。遠慮しなくていいから、どんな報酬が欲しいかね」ラバンはヤコブが働き者であること、そして娘のラケルに興味がある事を察して、さぐりを入れながら言ったのです。これは単なる好意から出た言葉ではありません。ヤコブの有能さを見込み、彼を手放したくないという思いから、有利な交渉を始めようとしているのです。
ヤコブは、まだ叔父のラバンがそういう人間だとは思っていません。とにかくラケルに一目惚れで、愛していたので18節「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう」と純粋に言うのでした。一方でラバンは19節で「ほかの人にやるよりは、親類のあなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい」とその地方の慣わし「もし娘が2人いたら長女が先に嫁に行く」という事を隠しておいての返答でした。なぜなら、16節から17節に娘たちについて書かれているように、長女のレアよりも次女のラケルの方が美しかったので、ラバンは父としても長女を思いやっての事なのか、もしくはこの機会に長女のレアまでも利用した父なのか、
いずれにしても、そうとは知らないヤコブはラケルのためにと7年間を数日とも思える程に一生懸命働いたのです。その間ヤコブはラケルと会話をするたびに嬉しくって、愛する心が深まりラケルをお嫁さんにするための結婚資金を7年間一生懸命働いて稼いだ事でしょう。
ヤコブのひたむきな姿から、私達もイエス様への愛の応答を捧げようではありませんか?
パウロがローマ人への手紙8章18節で「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」と言ったように、信仰のレースを走り続けましょう。
またパウロはピリピ人への手紙3章13節、14節でこう書きました「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」パウロが心がけたのは2つの事です。①うしろのものを忘れることと、②前のものに向かって進むことです。原語では、どちらも現在分詞で書かれているので、今の状態を現しており、彼のライフスタイルだったということができるでしょう。その状態を維持しながら、彼は「目標を目ざして一心に走っている」というのです。この「走る」と訳されている言葉は、「追い求める」とか、「推し進める」という意味があります。パウロは、いつもうしろのものを忘れ、前に向かって進むというライフスタイルを維持していました。そうしながら、彼は神の栄冠が用意されているゴールを追求していたのです。そのゴールは究極的には愛をもって慕い求める主なる神に、お会いする事ですね。
ヤコブも恋慕い求めるラケルのために、とにかく頑張りました。そして7年たって「私の妻としてラケルを下さい。いっしょにさせて下さい」とヤコブはラバンに申し出たのです。そしてラバンは村中の人を呼んで祝宴を上げ、夜になって暗いことを幸いにヤコブの所にラケルではなく姉のレアを彼のもとに連れていって一夜を過ごさせたのです。レアと共に女奴隷ジルパもつけたのです。
朝になってそばにいたのがレアだったので驚いたヤコブは「なぜ 騙したのですか!?」と憤慨し叔父のラバンに食ってかかりましたが、ラバンは平然と「我々の所では姉より先に妹を嫁がせることはしないので、とにかく婚礼の一週間をこのまま過ごしてくれれば、ラケルもおまえに嫁がせよう。ただしあと7年間ここで働いてもらう事になる」と言いました。こう言われては、しかたがない、ラケルのためなら更に7年我慢するとヤコブは働くのでした。ヤコブにこれほど愛されているラケル。うらやましいですね! イエス様はこれ以上に私達ひとりひとりを愛して下さっていると信じます!
この様子が書かれている23節から25節で学ぶ事は、父イサク、兄エサウを騙したヤコブが今度は叔父ラバンに騙されている姿から、人を欺くと欺かれるのです。自分の蒔いた種は自分で刈り取らなくてはならない事です。また始めはヤコブが望んだ通りにならなかったけれど、忍耐をした結果ヤコブはレアとラケルそして二人の女奴隷を得て、そこから12人の子供を設けるのです。
ヤコブの12人の子供たちは、後にイスラエルの12部族の族長となります。
もし今 物事が思った通りにならなくても、神のご計画は進んでいると確信と感謝をもって進みましょう。
パウロはピリピ人への手紙4章6節7節で、こう励ましています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」このピリピ人への手紙は、そのタイトル通りピリピという街にパウロが伝道旅行に行ったときに、ルディヤという紫の布、当時は高価で高貴な布ですが、それを扱っている女性(ビジネスレディ)に出会い、イエス様の救い聞いて信じた彼女がパウロを引き留めてピリピで教会を始めたのです。ヨーロッパ大陸で初めて出来た教会は、ルディヤという女性に神様がビジョンを与え出来た教会ですから始めは女性が多い教会でした。この教会に向けて、パウロはその身柄が牢獄の中にいても「苦しみの中での喜び」「奉仕の喜び」「信じる喜び」「与える喜び」そして「教会における多様性の中の一致」をテーマに書いたのです。逆に言えば、多様性があるからこそ、人同士の争いや、分裂の危機に直面することもあるでしょう。だからこそ、主イエス様を中心とした一致を保ち、感謝をもって互いに祈り合いなさい。そして人の知恵によるのでなく、神により頼み、与えられる平安を生きるようにと励ましているのです。
ヤコブもラケルを愛し結婚できると期待し一生懸命に働いた姿は、私達ひとりひとりがイエス様を信じ、イエス様を愛し、やがて約束の地である天の御国に帰るまでの間に、イエス様の弟子として従い、仕える姿と重なります。聖霊様に力を頂き、キリストが溢れる人生ともいえるでしょう。私達の心から喜びをあふれ出させてくださる神様に、私達ひとりひとりの歩みを通して、イエス様のすばらしさが現れ、広がっていくように、「私をお用いください」と祈れるようにと、願います。
では、イエス様を愛するためにどうしたら良いでしょうか?
例えば、6月に日米通算4257安打に到達したイチロー選手を例に考えてみましょう。その記録を出した時の彼のインタビューを聞いて、皆さんはどのように思ったでしょうか? イチロー選手は「心境は複雑だから、あまり騒ぎたてないでほしい。僕はいつも周りからプロ野球選手になるなんて、無理だよ。夢の話だよ。メジャーリーグにいって活躍したいなんて何言ってんの。といつもマイナスな言葉と戦ってきました。しかし僕にはいつも夢があり、それを目指している結果が今回の結果なので、ここで称賛されるのは困っていますし、日本人としてアメリカでやって来たこれまでは、いろいろな戦いでしたから、この記録について批判もあるのを知っています。だから本心はそっとしておいて欲しいのです。またこれからの目標としてひとつ言える事は年齢を考えて限界を作るのではなく、限界を超えて、願わくば50歳までプレーしていきたい」というコメントを聞いて、一貫してぶれる事のない野球に対する情熱のあるイチロー選手の姿勢に、心に励まされた方は多いと思います。そのイチロー選手を育てたお父様は「イチローには、野球がうまくなる努力をしたことは一度もない、野球を好きになる努力をしてきた」と語っておられます。イチロー選手が幼い頃、お父様は連日バッティングセンターに通っていたという話しが広まって、多くの父親が息子をバッティングセンターに連れてくるようになったそうです。しかし、事実は、イチローの父がイチローを連れて行ったのではなく、イチローが父を誘ってお願いして通い詰めていたのです。
この話を聞いて、息子を野球選手や甲子園のスターにしようと親子でバッティングセンターに通う方々は形だけの模倣であって、本質をはずしているのです。自分から父親をバッティングセンターに誘う程の「野球好きに育てること」がイチローの父親の努力です。
人を育てるためには「外圧によって願い通りにする」のでなく、「内圧を高める努力をする」のであり、教会やひとりひとりの信仰の成長、信仰継承にもかかわる本質だと思います。
「だれかをクリスチャンにする努力」ではなく、「救い主であるイエス様を愛する人に育てる」という発想が大切です。神の愛を知り、それに応答して「神を愛する心」を育てるのです。
そして信仰をもっているひとりひとりが周りに証しするために「クリスチャンをうまくやっている姿」ではなく「キリストを真実に愛し生きる姿」です。
礼拝、奉仕、讃美、祈り、献金を捧げる事に、神への愛への応答として喜びを伴った姿を見せてきたのか?が問われます。
「イチローには野球がうまくなる努力をしたことは一度もない、野球を好きになる努力をしてきた」
そのように私達もイエス様をもっと愛せるように求めていきたいと願います。
そのために、毎日のたった5分でいいので、自分とイエス様と二人っきりの時間を持ってみましょう。お茶を飲むときでもいいのです。お茶を入れながらイエス様と二人っきりの時間を作るのです。黙示録3章20節「見よ。わたしは、戸の外に立って叩く。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」イエス様はひとりひとりの心の扉を叩いていらっしゃいます。そしてみ言葉という美味しい食事をイエス様が持ってきてくださり、一緒に食事をしてくださるのです。
今日の聖書箇所から、叔父のラバンの策略にまんまと騙されても愛を貫くヤコブの姿勢から、私達もイエスを愛するように、むしろイエス様の愛をもっと受け取る心を育めるようにと願いたいと
思います。