2016年6月25日創世記25:19-34「契約を受け継ぐ」
ずっとアブラハムの人生を通じて、神様の壮大なご計画がどのように成し遂げられるか、神様の大きさ、豊かさ、愛と憐れみに富むお方であることを見てきました。
今日からイサクの生涯と彼の子供達から、神の契約を受け継ぐ事についてご一緒に学び、礼拝を捧げていきたいと思います。
イサクについてわかる事は、神様が与えてくださった約束の子として、両親の愛と保護をたくさん受けて育ち、父アブラハムが自分をいけにえとして捧げようとする事に抵抗しなかった少年であり、結婚に関しては他の人が選んできた女性を喜んで妻として迎えた男性です。イサクの役目は父アブラハムに与えられた神との約束と祝福、信仰を忠実に受け継ぎ、それを次の世代に引き継ぐ事でした。ヘブル人への手紙11章20節「信仰によって、イサクは未来の事について、ヤコブとエサウを祝福しました」とパウロが書いている通りです。
イサクが40歳の時にアラム人ラバンの妹であるリベカを妻にしました。それから20年の間イサクとリベカの間には子供が生まれませんでした。父アブラハムが通された信仰の訓練を、同じようにイサクも受けたのです。信仰は自動的に受け継がれるものではないという事が分かります。信仰の成長は試練を通じて育まれるのです。
ヤコブの手紙1章2節から4節「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるという事を、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」天の父なる神の愛は、しばしば私達を試練の中において、信仰の成長を育むために訓練してくださるのです。
だから試練をこの上ない喜びと思いなさい、と聖書は励ましています。
神に愛されている実感はありますか? 信仰を成長させたいですか?
ヘブル人への手紙12章6節から8節「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめる事をしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです」愛にあふれる神は、私達の成長を願っておられるのです。それは祈りの訓練でもあります。イサクとリベカは20年間祈り続け、そして祈りは聞かれたのです。
21節「主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった」しかし、そのリベカの妊娠はとても辛いものだったと察する事が出来ます。22節「子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんな事では、いったいどうなるのでしょう。私は。と言った。そして主のみこころを求めに行った」おなかの中のふたごの赤ちゃんがぶつかり合っているとなるとリベカは肉体的にも精神的にも苦痛だったでしょう。本当に苦しくて真剣に神のところに行き、真剣に祈るようになりました。苦痛だったからこそ真剣に祈る姿に変えられるのだという事を私達は学ぶ事が出来ます。
リベカの祈りは主のみこころを求める祈りでした。そして祈りがきかれ主がみこころを示してくださったのです。23節「すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」このように、リベカに主はみこころを示されました。これがリベカの子育てに大きな影響を及ぼすのです。
主なる神の約束のとおり、双子が生まれ、最初に出てきた子は赤くて、毛深い子でしたからエサウと名前が付けられました。そのあとで弟が出てきましたが、兄のかかとをつかんで出でてきたので、それにちなんで「ヤコブ・かかとをつかむ者」という名前が付けられたのです。27節「エサウは腕利きの猟師で野の人、ヤコブは穏やかな人となって天幕に住んでいた」と書いてあります。エサウはきっと活発だったのでしょう。そして父であるイサクはエサウを愛していた、とあります。理由はエサウがとってくる獲物を好んでいたからです。エサウは獲物をしとめてくると「父さん、きょうも獲物がとれたよ。きっと美味しいよ」父イサクはそれがきっとうれしかったのでしょうね~。一方、母リベカはヤコブを愛していたとあります。ヤコブは穏やかな性格であった事とリベカは主なる神から「兄は弟に仕える」と聞いていましたから、そのように育ててきたのでしょう。父と母がどう思いで接しているのか、子供はよくわかります。ましてや双子ですから、敏感に感じたはずです。母リベカがヤコブに気持ちが向いている事が、エサウにはわかっていたのでしょう。だから父がとってくる獲物を好み、持っていくと褒められる事で自分の存在価値を保っていたのです。
イサクとリベカの夫婦間に、子育てに関して一致がなかったのでしょうし、その他の事でもすれ違いがあったのかもしれません。私達も完璧な人間ではありません。欠けだらけの人間が子育てしますし、他者と関わっていきます。だからこそ、どう関わっていったら良いのかを主なる神に知恵や主のみこころを求める必要があります。箴言22章6節「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」「ふさわしく教育せよ」と言っていますが、何を教えたら良いのでしょうか?箴言1章7節「主を恐れる事は知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」とあるように、聖書を通じて私達は2つの大切な事を知る事が出来るのです。
1つめは、創造者の存在についてです。
私達人間は進化によって偶然にここにいるのではなく、天地万物の創造の神によって一人一人が実に個性的に、ユニークに造られた神の作品であり、神が与えた賜物や才能に従って歩む者です。ユダヤ人の教育方針として三つの基本があります。
(1) その子の特性を見極める。
(2) その特性を伸ばすための長期計画を建てる。
(3) その子のペースに合わせて進む。
日本人の教育はこの逆をしていると言えます。その子の特性ではなく周りを見て、教育する傾向にあります。皆がピアノ・英会話・塾に行っているから行かせるたり、親が自分の果たせなかった夢を子供に押しつけたりします。こうして子供を勉強嫌い・音楽嫌い・○○嫌いにしてしまうのです。ある文化人類学者は「日本の文化は、他人の顔を見る文化である」といいます。聖書の教える「絶対者」という概念がないので常に相対的で、人と比べながら生きているのです。もし、あなたのお子さんが「今日テスト100点取ったよ」と言えばどう反応しますか。多分「すごいね、よくがんばったね。」と褒めると思います。しかし、次に 「でもね、クラスの全員が100点だったの」と聞かされて「なーんだ」とがっかりしないでしょうか?100点を取ったという事実は何も変わっていないのに、その100点を他人との比較の中で評 価してしまい、途端に100点の価値を下げてしまうのです。皆さんはどうですしょう?
2つ目は.「愛といのちの神の存在について」です。
イエス・キリストは私達を愛し、私達の罪の身代わりとなって十字架で死なれ、三日目に蘇られた方です。私達が、このキリストに出会う時、無条件の愛に触れ。本当の意味で生かされていくのです。
愛の奇跡のお話を紹介します。メイ・レムキさん当時54歳の女性が、レスリーという6ヶ月の男の赤ちゃんの世話を頼まれました。レスリーは脳性麻痺で、知的障害があり、眼病のために目を取り除かれ、耳も聴力に障害がありました。医者たちは、「この赤ちゃんは長く生きられない!」と診断しましたが、メイさんは「この子を絶対死なせない!」と決心し、レスリーに愛を注ぎ続けました。そして、普通の赤ちゃんのように育て始めたのです。レスリーの頬の近くで大きな吸引音を出して哺乳瓶から普通にミルクが飲めるように教えました。レスリーは10歳になっても手だけしか動かせない状況で、絶望的に見えましたが、メイさんは確信していました。「子どもは優しさと愛情があれば、必ず治る1時間や1日、1年くらいではなく、いつまでも続く愛があれば、大丈夫! 神は必ず私を助けて下さいます!」彼女は、レスリーをおんぶして歩き回り、“愛してる”と耳元でささやき、抱きしめて、愛情を一杯注ぎました。やがて彼は、フェンスをつかみながら立ち上がり、フェンス伝いに歩く事を覚えました。メイさんは「愛する主よ。聖書には、神は全ての人に賜物・才能を与えられた、と書かれています。このレスリーにも、賜物(才能)を与えて下さったはずです。どうかそれを見出す事が出来ますように私をお助け下さい」と祈り続けました。彼女はレスリーが音楽に反応しているのを見逃しませんでした。そこでご主人と相談し、ピアノを購入し、ラジオやレコードを使ってあらゆる種類の音楽を聴かせると、レスリーは大きな関心を示している様子で、何時間も音楽を聴いていました。奇跡は、レスリーが16歳になったある日の朝3時に起きたのです。突然なったピアノの音がしたのです。レスリーがピアノの前に座って、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第一番」を弾いていたのです。何とレスリーは突然、才能を開花したのです!聖書はこう記しています。第一コリント13章4節から8節「愛はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 愛は決して絶える事がありません」メイさんは次のように言っています「これは愛の奇跡です。子供たちはいつまでも続く優しさと、愛に触れ続ける時、可能性や能力を開花させるのです」
子供は親の愛のこぼれで育つといいますが、愛をこぼすほど愛で満たされていないなら、神に求めましょう。
双子のエサウとヤコブ、双子なのにそれぞれ違う性格です。野の人となった長男エサウは猟からおなかを空かせて帰宅しました。家で煮物をしていた弟のヤコブに「あーあ、腹ぺこで死にそうだ。その赤いやつを一口くれよ」と言ったので、弟のヤコブは「いいよ、その代わりに兄さんの持っている長男の権利と引き換えるならね」と言うと、エサウは「今にも飢え死にしそうなんだ。長男の権利なんか何の役に立つんだい」と言うと「それなら兄さん、その権利をぼくに譲るって、神様の前で誓ってくれよ」とヤコブは言うと、エサウはヤコブに誓って、パンとレンズ豆の煮物と引き換えに長子の権利をヤコブに渡したのです。34節「こうして、エサウは長子の権利を軽蔑したのである」と書かれているようにエサウの神様に対する態度や性格がわかります。エサウは彼の欲望のまま行動し、自分の内面を見つめず、自分の弱さを認めて神に救いを求める人ではなかったのです。エサウは赤いレンズ豆の煮物を求めたので、後にエドムと呼ばれ、彼の子孫はエドム人と呼ばれるようになりました。この事をパウロはヘブル人への手紙12章16節から17節「不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした」とエサウのようになったらいけない、と警告してくれているのです。
イエス様を信じる私達は神の子とされています。神の子としての権威も与えられています。ルカの福音書10章19節でイエス様はこうおっしゃいました。「敵のあらゆる力に打ち勝つ力を授けたのです」
皆さんと一緒に毎週祈っている主の祈りの中に「私達を試みに会わせず、悪よりお救い下さい」とあります。これは「試練に合わせないで下さい」という祈りではありません。
皆様のお手元に柳生訳の言葉で紹介してありますように、「私達を誘惑に遭わせず、悪魔の手から救い出して下さい」「私達を試みる攻撃する者、悪からの誘惑から守って下さい、助けて下さい」という祈りです。悪魔は私達の弱いところを、思いの中で攻撃や誘惑を仕掛けていきます。ですから、神様の恵みの中にはいり、神様のご計画の中にある私達ですから、信仰の視点をしっかり持ち続ける事が出来るように、いつも求めていく必要があるのです。その視点から外れていく時に私達もエサウのような事に陥ってしまうのではないかと思います。ヤコブは決して人格的には優れた人ではなかったかもしれませんが、何が大切な事であるかをキチンと見ており、知っていた人でした。私達もこの世のただ中にあって、何を大切にすべきか、何を第一とすべきか、その事をしっかりと見分けて、見極めていけたら、と願います。その秘訣をパウロはヘブル人への手紙12章2節「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と勧めています。別の言い方をすると「イエスから目を離す事なく、イエスを仰ぎ見、私達のまなざしをイエスにしっかりと固定して、イエスに目を注がなければなりません。」自分が今直面している問題や周囲の状況にばかり気を取られたり、あるいは自分自身や自分の弱さにばかり気を取られたりすると、見なければならない大切なものを見る事ができなくなってしまいます。関心は自分自身ではなくて、イエスに向ける事です。なぜなら、イエス様こそ私にとって最も必要なお方だからです。
イサクとリベカの祈り、二人に与えられた双子のエサウとヤコブの姿から教えられる事は、家族で何が一番大切なのか、家族の一致、教会もイエス様を頭とする神の家族ですから、心の一致求め、主の御心をいつも祈り求め、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」とあるように、神の約束を握りしめて、いつもイエス様を見つめて歩めるように、と願います。