2016年4月23日 創世記18:1-15「主に不可能なことはない」

 

 今日の賛美で「私は奇蹟を信じる」を歌いましたが、奇跡を信じていますか?

大きい奇跡を期待する時は、大きな苦しみにある時でしょう。日々当たり前にある日常も奇跡です。みなさんはどんな奇跡を期待しますか?

今週私にあった奇跡は、8年前に亡くなった祖父のカバンから¥2,500が見つかった事です。

 

さて、前回は「イエス様を信じる者は心に割礼を受けた者」であり、「神の契約は永遠に変わる事がない」事を学びました。今日読んでいただいた箇所は前回の続きです。1節では暑さの増す頃で昼寝をして身体を休め、また割礼の傷が癒えるまでゆっくりと時間を過ごすために、マムレの樫の木のそばで座っていたアブラハムにが天使とともに普通の旅人の格好で現れました。

「マムレの樫の木」がここにも登場します。アブラハムの物語を読むとマムレの樫の木がしばしば出て来ます。アブラハムの人生を語る時に、たいへん象徴的な意味をもった場所、それがマムレの樫の木でした。ご覧のようにとっても大きな樫の木です。

 アブラハムにとってのマムレの樫の木は、人生のターニングポイントにおいて心休まる場所であり、神に祈り、礼拝を捧げる所だったのでしょう。兄弟や父が死に、しかも自分には跡継ぎとなる子供がないという状況の中で人生の途方に暮れていた時に、生ける真の神様と出会いました。そして、「わたしが示す地に生きなさい。わたしはあなたを祝福し、あなたを大きな国民とする。あなたの子孫によって地上のすべての民を祝福する」という神様の声を聞いたのです。

 アブラハムは、この神様のお言葉を信じ、父の家を捨て、生まれ故郷を後にして、神様の示す地に向けて旅立ちます。創世記13章18節「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。」

たどり着いた場所がそのマムレという土地であり、大きな樫の木の立つ場所であったのです。 それ以来、アブラハムはこのマムレの樫の木のもとで、神様との深い交わりをもって暮らしてきました。「マムレ」には、「力強い」という意味があり「樫の木」もまた頑丈さを象徴する木です。孤独に打ちひしがれている時、アブラハムはこのマムレの樫の木のはるか頭上に広がる満天の星空を眺め、神様の声を聞き、心に慰めと励ましを受けたのです。

 今日の箇所でもマムレの樫の木にいた時に特別な経験をします。主なる神が現れた事です。アブラハムがマレムの樫の木のそばで、まどろんでいる所に、なる神が2人の御使いと共に現れたのです。1節では「主は」と書かれていますが、アブラハムが瞬間的に主なる神だと気が付いたわけではありませんでしたが、人の来るような時間ではない暑い昼時に来た突然の来客になにか特別なものを感じたのでしょう。何気ない日常に、突然主が現れる事があるのです。このように普通の旅人の格好で。アブラハムはこの普通の格好をした3人の旅人に謙虚に、そして最高のもてなしをします。どのくらいのもてなしをしたかというと、4節から8節にあるように、大量のパンと料理でもてなしました。

新約聖書のヘブル人への手紙13章2節「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」とパウロが書いたのは、まさにこのアブラハムの体験を記したのです。

 主なる神と2人の御使いが現れた理由は、2つの事を告げるためです。

1つは、「次の年にサラに男の子が出来る」という事と もうひとつは16節以降に書かれているように「不道徳と罪にまみれているソドムとゴモラの地に裁きをくだす」という事

を告げるために現れました。

今日は「次の年にサラに男の子ができている」と告げられたアブラハム、サラの反応と主なる神との対話にフォーカスしたいと思います。

もてなしを受けた3人の旅人は9節「あなたの妻サラはどこにいますか?」とアブラハムに尋ねました。アブラハムは彼らに妻を紹介し、名前を教えたわけではないのに、彼らは妻サラの名前を知っていたのです。きっとアブラハムも、その様子を天幕の中で聞いていたサラもびっくりした事でしょう。アブラハムが妻のサラは天幕の中にいます、と答えると10節「するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」

これを聞いてますます驚いた事でしょう。天幕の中で話を聞いていたサラの心境は12節

「それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」

そんなことあるはずがない、とサラは思いました。肉体的には女性としての機能もとっくになくなっていたし年も89歳、主人のアブラハムも今は99歳、夫婦としての楽しみもないし・・・とクスと心の中で笑ったのです。

そこでがアブラハムに「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」サラの心の中を主なる神はご覧になって、このように言われたのを聞いて、サラは恐れて15節「私は笑いませんでした」と打ち消しました。主なる神は「いや、確かにあなたは笑った」とサラに不信仰を認めるように促したのです。主なる神は、どんなにつくろって隠そうとしても、私達の思いを既にご存知です。私達がまず主なる神の前でしなくてはいけない事は、素直に自分を明け渡す事です。そうすることで主なる神は愛を憐みをもって導いてくださる偉大なる神であるという事を知る事が出来るのです。

主に不可能なことがあろうか?主にとって不可能な事はないのです。

無から有を生み出すお方です。先ほどご一緒に賛美した、私は奇蹟を信じる。これは歌いながら信仰を告白しているのです。

主は、アブラハムとサラが、人間が自分の力尽きるタイミングをみて、主の時に御業をなさいます。主なる神の御業が現れるときは、人間の力 もうダメだという時です。神は私達の弱さにひきつけられるお方なのです。

バプテスマのヨハネの親となるエリザベツとザカリヤも、イエス様の母マリヤ・父ヨセフも似たような経験をしました。クリスマスの時期になると読まれる箇所ルカの福音書

1章にある出来事です。エリザベツが不妊であったため子供が与えられずザカリヤは祭司の職についていながら、御使いガブリエルが突然現れて「こわがることはない、あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリザベツは男の子を産みます」と言われましたが、信じられず思わず「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄ですし、妻も年をとっております」と言ってしまい、男の子ヨハネが生まれるまで口がきけないようにされました。また御使いガブリエルは、マリヤに「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と言いましたが、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込みました。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」といわれますが、マリヤは御使いに「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と言うと、御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。神にとって不可能なことは一つもありません。」と励ましました。そして、マリヤはその言葉を受け取り、その通りになりますようにと従いました。

主なる神は個人的に語られ約束を与えてくださる事もあるでしょう。それが主なる神の声であると判断するためにはその語りかけにいつも聞いている声だとわかるでしょうし、また平安が与えられるはずです。

そしてなる神は個人的にだけでなく全人類に約束を与えてくださっています。それはイエス様がもう一度この地上に戻って来られる事です。イエス様がご降誕されたのは私達の罪を贖うために十字架に架かられるためであった約束、それはもう成就しました。そして必ず成就する約束は、もう一度この地上に来られる事です。

 

「父の約束を待ちなさい。聖霊が臨まれると力を受けて、地の果てにまで、私の証人となります」と復活されたイエス様が現れて弟子たちに教えられました。その事が新約聖書の使徒の働き1章に書かれています。どのような状況でイエス様がそのようにおっしゃったのかというと、復活のイエス様に出会った弟子たちが、当時ローマの支配下にあって厳しい状況にあったので、いつイスラエルの国が復興するのですか?と質問しました。

イエス様は神の国の再建について語られました。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなた方は知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」とイエス様のご再臨の時は、天の父なる神のみがご存知なのです。そして聖霊様の力によって信じる力と福音を宣べ伝える力が与えられるという事、それによって神の国が来る、イエス様のご再臨があると教えられました。

天の父なる神は、だれひとり滅びる事がないように願っておられます。イエス様は必ず

この地上に戻ってこられます。それは信じる者だけが持つ事のできる希望です。

 

アブラハムも突然、旅人の格好をした主なる神の訪問を受け、最大のもてなしをし、

約束を再確認する事ができましたし、サラも信仰をしっかりと持てるようにと変えられました。  

私達もイエス様がいつ来られても大丈夫なように備えてあるでしょうか? 

マタイの福音書25章はイエス様が十字架につかれる前に、弟子たちがイエス様にこの世の終わりについて、またいつイエス様が戻って来られるのか質問した事への返答が記されています。実際はマタイの福音書24章から続いていますが、25章の「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちひとりにしたのは、わたしにしたのです」とそのような人に主は報いて下さる、祝福してくださると言うのです。もし、みなさんの前にイエス様がハッキリとわかるように来て下さって、おなかが空いていると訴えたら、自分の分も減らして差し出すでしょう。でも最も小さい者、いわゆる自分とは関係のない人であったり、とるに足らない人が おなかが空いていると訴えてきたら、どうでしょうか? どんな事でもイエス様に対する思いで対応しなさいという事です。最後の審判の時に、すべての国々の民が神の御前に集められ、分けられるのです。

イエス様を信じる信仰が愛の実践となっているかどうか、それによって報いが与えられるのです。救いは神の一方的な恵みです。そして天においての報いは、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し・・・と書かれています。しかし、まず、天国に入れる条件は、神の御前に立った時に問われる質問「神の独り子、イエス様をどうしましたか?」「はい、私の救い主と信じました」と答える事だけです。大丈夫ですか? 永遠に神と共に過ごす天国への確信はありますか?

 

最後にひとりのクリスチャンの方の証しを、紹介します。2015年に89歳で天に召されたブルース界の伝説的存在であったB・B・キングさんです。

プランテーション農園で働く小作人の両親の下に生まれたキングさんは、共に活躍したブルースの巨匠たちよりも長い生涯を送り、人種差別が強いアメリカ南部の綿畑で生まれた粗削りの音楽が、新しいリスナーを獲得するのを見続けてきました。深い霊性を持つ人として描かれるキングさんは、信仰を実践するクリスチャンでした。幼少期には、当時通っていた教会のアーチー・フェア牧師からギターを学んだそうです。フェア牧師はキングに幾つかのコードを教え、キングはエルクホーン・バプテスト教会でゴスペルを歌い始めました。彼のインタビュー中で、信仰について語った10の事柄を挙げています。

音楽への愛について「母が教会に連れて行ってくれた時からブルースが好きです。私はゴスペルを聴き始め、好きになりました」

霊性については「私は誰にもつらく当たったことがないと思います。私はいつも、自分自身を兄弟の付添人と考えています。そして、私たち全てを気に掛ける『偉大なる霊』が存在すると信じています」

教会について 「教会は素晴らしい出会いの場です。安全で穏やかな場所でしょう。人々は優しく、祝福されていると感じます。教会では手を伸ばし、聖霊にある交わりを楽しめるのです」

教皇ヨハネ・パウロ2世とのとの会見で「母と教会に通っていたとき、牧師が自分は他の人とは違うと感じられるようにしてくださいました。牧師は、私が神へのメッセージを受け取ることができると思わせてくださったのです。4、5年前まで、その感覚を思い出すことがなかったのですが、バチカンで教皇ヨハネ・パウロ2世にお会いする機会がありました。私は、神と話し何かを伝えられる、あるいは教皇が神に私のメッセージを届けてくださると感じました」

母の看取りに際して 「教会は慰めの場所です。音楽と会衆の温かさに包まれています。しかし、教会はこの穴を満たすことができません。何もその穴を満たせないのです」

ゴスペルについて 「母は、私の心をあわれみ深い神への愛で、満たしました。ゴスペルはその愛を歌うのです。そして、神もご存じのとおり、私はゴスペルを歌うのが大好きです」

能力について 「私は、全てのミュージシャンについて、その能力は美と人の感情を表現するための神からの贈り物だと信じています」

創造主である神について 「私は神が全てのものを造られたと信じています。私は神の手の業――私たちを取り囲む森、海、そして空――に畏怖の念を抱きます。私は神が私たちを造ったと信じています。しかし、私たちの性質はいつも神のようだとは限りません」

神の神秘について 「しかし、神は生と死がそうであるように、神ご自身が奇跡と謎そのものです。私が完全に説明、理解できるようなことではありません。私は物事をそのまま受け入れる準備ができています」

死後の世界について 「全ての人が天国に行きたがりますが、天国に行くために死にたいと思う人はいません」とちょっとジョークまじりに言っていますが、キングさんの人生は、多くの人に影響を与えた事でしょう。

 

 

私達の人生も、例え有名でなくても、たとえ大きな成功はなくても、誰かに祈られ、誰かのために祈る人生の目的があるはずです。だからこそ、イエス様との関係をしっかり築けますように。そして「主なる神様に不可能な事はありません」と宣言しながら、日々歩めますように、お祈りします。