2016年4月16日「永遠の契約」
木曜日からずっと、熊本・大分など九州地方で大きな地震が続いていますが、被害に遭われ避難されている方に一日でも平安が与えられますように、また家族や親せき、ご友人の方が熊本におられる方もいらっしゃると思います。心配でいっぱいの事と思います。
神の恵み、神の御手の中に生かされている私達なのだと思います。
箴言27章1節「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ」とあります。私の知り合いの方は地震の起こる前日まで熊本に住む息子さん家族の所にいました。本当にちょっと前までの楽しかった時間が一瞬で変わってしまったと話しています。
病気だけではなく、自然災害や人災や事故などによって「死」がいつどのようにやって来るのか皆目見当がつかないものですが、主を信じた者はすでに永遠のいのちを与えられているので、肉体のいのちが断たれた瞬間、ちょうど蝉の抜け殻のように肉体はこの世に置いて行くことになりますが、キリスト者のたましいはパラダイスにおられる主のもとに、永遠の世界に移されます。黙示録14章13節は「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである」と語っているのです。
キリスト者でも世の人々と同じように病にかかったり、自然災害にあったりさまざまな試練で苦しむようなことがありますが、苦難の中で主に助けを求め、神のみわざを見たり、恵みによって救われていることの幸いを経験するようなことが出来るのではないでしょうか。被災された方々やご遺族の方々、不安を覚えておられる方々に福音が届き、主を信じる信仰が与えられるようにお祈りしたいと思います。
前回は16章をみましたが、今日の17章との間に、実に13年の月日が流れています。
13年も神は語られなかった理由は、自分の知恵と力で事を起こしたアブラハムに対して、
神が時を待たれていたのです。ハガルとの間の子イシュマエルは13歳の少年に成長しました。アブラムはイシュマエルが約束の子と信じて、この上ない愛情を注いで育てた事でしょう。アブラハムの心は息子のイシュマエルで自己満足をしていたのかもしれません。
アブラムが99歳になったとき、主なる神が現れて仰せられた内容が1節後半から16節また、それに対するアブラハムの応答が17節から18節、アブラハムの応答を聞いた主なる神は19節から21節でつけ加えて語ります。それに対してアブラハムが従った内容が22節から27節です。主なる神が語られた内容は、契約の再確認でした。
またアブラムにとって99歳になった時人生の大きな変化がありました。神によって名前をアブラハムと命名された事です。アブラムという名前は「高貴なる父」「高められた父」という意味でしたが、アブラハムという名前は「多くの国民の父」という意味を持つ名前です。自分の名前が「多くの国民の父」となった事で内面も変えられたはずです。どうなっていくのか、見て行きましょう。
1節で主なる神ご自身を改めで「わたしは全能の神である」と紹介しています。
ヘブル語で「エル・シャダイ」エルが神という言葉で、「シャダイ」が祝福を注ぎだすという意味を含んでいますので、主なる神は、「全能の神」であり、不可能な事はないのだ、という事をお示しになったのです。
続いて、「あなたはわたしの前を歩み、全きものであれ」と励ましました。
「全きものになれ」とは、「完全なものになれ」という事ではなく、「全き信仰を持って、神に応答する者になりなさい」という事です。私達人間が完全無欠には決してなれません、
ですから、主なる神に、全能の神に信頼して歩む者になりなさい」と励ましてくださっているのです。
そして2節から8節「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる」
と改めて契約の確認と「立てる」とそれは「今から有効で永遠で変わる事のない契約である」と神が強調されたのです。全能で完全な神と不完全な人間との間で結ばれている契約です。たとえ私達が契約を破棄しようとも、不信仰だとしても、神の約束は変わらないのです。契約の詳しい内容は4節から16節、子孫を星の数ほどに増やす、カナン全土(現在のイスラエル)を永遠に与える、その契約のしるしとして、すべての男子は割礼を受けなさい、という事です。割礼とは男性の大切な所の先を切り取ることです。それはすべての事柄において神に従うという「しるし」、神の契約の民に属するという「しるし」であり、ユダヤ人としてのしるしです。そして「罪に生きていた古い生活を切り捨て、心をきよくして、自らを神にゆだねるしるし」です。また大切なところを清潔に保つためです。
日本に住む私達の水の豊富なところはお風呂に入る事ができますが、荒野に住む人達が身体を清潔に保つように神様が与えて下さった知恵です。日本のインターナショナルな病院では「割礼外来」があります。それを見つけた時、どこにいても割礼の習慣のある国の人はそうするんだ!と思いました。アブラハムや他の大人が割礼を受けるのはきっと痛かったでしょうけれど(私は女性なのでわかりませんが)、12節にあるように生まれて八日目に割礼をというのは医学的にも痛みと傷が癒えるのがとても早いという事です。
また、神はサライに対しても15節でサラ「高貴な女性」と命名しました。そしてサラを祝福し「国々の母」となると約束してくださったのです。
神の仰せを聞いてもなおアブラハムは表向きは神の前にひれ伏しても、心の中では「百歳の者に子どもが生まれようか、サラも90歳、そんな事はありえないし、既にイシュマエルがいるではないか・・・」と疑ったのです。そしてイシュマエルを祝福してくださいと願いますが、神様の計画はサラを通して約束の子が与えられる事でした。約束の子には
イサク「彼は笑う」という名前を付けなさいと神はお命じになったのです。
憐み深い神はイシュマエルの事を思う父アブラハムの思いを受けて20節でイシュマエルのための祝福を約束します。イシュマエルは12人の族長たちを生むと預言されていますが、詳しくは創世記25章13節から16節に「サラの女奴隷エジプト人ハガルがアブラハムに産んだアブラハムの子イシュマエルの歴史である」と詳しく書かれていますが、イシュマエルの生涯は137年でイシュマエルの子孫は、ハビラから、エジプトに近い、アシュルへの道にあるシュルにわたって、住みつき、それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだのです。彼らが住んだ地域は、ちょうど現在のアラビヤにあたります。そして、すべての兄弟たちに敵対して住んでいたというのは、これも、神が以前語られたことが実現したからです。16章12節に、「彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」という神の言葉があります。それが現在まで続いているのです。
神はイシュマエルへの祝福を約束しましたが、21節で「しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに生むイサクと、私の契約を立てる」としたのです。
神の声を聞いた後、アブラハムは契約のしるしとしての割礼を受けました。神に従ったのです。
割礼は「罪に生きていた古い生活を切り捨て、心をきよくして、自らを神にゆだねるしるし」と申しましたが、イエス様を信じた私達は心の割礼を受けたのです。
パウロの書いたローマ人への手紙2章29節には「御霊による、心の割礼こそ割礼です。」
と書いてあります。パウロがこの言葉を語った背景には、律法主義である人々が律法を守れない人々を裁き、また異邦人いわゆるユダヤ人ではない人々を裁いている事を案じて述べた言葉です。主イエス様の救いは、律法を守り、正しい行いをしたから救われるのではなく、主イエス様の一方的な恵みによるのだ、聖霊様に導かれ主イエス様を救い主だと信じる事で救われ、神の与える律法を守っていると、義と認められるのだとパウロは言っているのです。
神が与えてくださっている祝福とは、申命記30章6節「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる」
イエス様も新しい戒めとしてこうおっしゃっています。「互いに愛し合いなさい、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。
この新しい戒めを理解できるように、イエス様はたとえ話をされました。
マタイの福音書9章17節「しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます」
このようにイエス様がおっしゃった背景は、取税人のレビという人に、イエスさまが従ってくるように招かれました。当時の取税人は、さげすまれる仕事でした。そのような仕事のレビは招かれた事が嬉しくて、直ちに何もかも捨ててイエス様に従いました。そして、自分の家にイエス様と弟子たちを招き、さらに取税人仲間や友人知人を招いて、宴会を開きました。それを見ていた厳格な宗教家であるパリサイ派や律法学者達が、イエス様を批判したのです。他の宗教家たちはみな断食をしているのに、イエス様は断食をしている様子はなく、食べたり飲んだりしているし、ましてやみんなから嫌われている人々と宴会している。それではまじめに神を信じているとは言えない、というのです。イエス様に従い、信じるという事は、それまで人々が考えていた宗教というものとは、だいぶ異なっていたのです。今日の聖書箇所でアブラハムが神に従い割礼を受けたように、私達もイエス様の救いを信じて、心の割礼を受ける者として、従い歩みたいと願います。
「今が恵みの時、救いの時です。」今という時を大切にしてください。
最後にクリスチャンの方のお証しを、紹介します。ベサニー・ハミルトンさんです。
4年前に「ソウル・サーファー」という題名で日本でも映画が上映されました。
ベサニー・ハミルトンは、この本を書いた時点で14歳でした。プロのサーファーを目指す、サーフィンの大好きな少女です。彼女の両親は、それぞれアメリカ本土で暮らしていましたが、二人とも若い時にサーフィンのメッカであるハワイに住むようになりました。そして二人はハワイで出会って結婚したのです。その両親の影響でベサニーはサーフィンが大好きになりました。8歳の時にはオアフ島で開かれたサーフィンの7歳から9歳の女子の部門コンテストので優勝しました。以来大活躍をし、プロのサーファーを目指すようになりました。彼女は、5歳の時にイエス様を信じるようになったそうです。そして「わたしにとって神さまと固い絆を持つことは、サーフィンよりも大切だ」と言っています。
そのベサニー・ハミルトンが13歳の時のことです。ある日、友達といっしょに海にサーフィンに出かけました。サーフボードに腹ばいになり、海に浮かびながら大きな波の来るのを待っていました。その時、左側から近づいてくる灰色の大きな物体にハッとしました。それは巨大なイタチザメだったのです。サメは、サーフボードに乗っていた彼女の左腕を、サーフボードごと噛みちぎったのです。肩まで食いちぎられてしまいました。
不思議とその時は痛みを感じなかったそうですが大量の出血となってしまいました。近くにいた仲間が気づき、とにかく必死に岸まで連れ戻そうとしました。しかし岸まで400メートルもあったのです。その時ベサニーは、死ぬかもしれないと思い、「お願い神さま、わたしを助けて下さい。神さま、わたしを浜に着けてください」と繰り返して祈ったそうです。そうして、浜につくまでの15分間「死ぬかもしれない」という恐れが、祈りによって「わたしは神さまによって守られている」という思いになったそうです。
ビーチに着き、救急車が来て、救急隊員が手を握り「神さまは決して君を見捨てないよ」とささやいてくれました。この事故の連絡を受けた友人のサラがベサニーのために御言葉をくださいとお祈りしたら、旧約聖書のエレミヤ書29章11節が与えられました。「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」という御言葉です。また、サラとベサニー兄ノアがカウアイ島中のクリスチャンの友達に電話して、祈りを依頼したそうです。
彼女は、体の半分の出血をし、左腕は肩から先を失っいましたが、命が助かりました。
しばらくたって、このことをマスコミが「鮫に襲われた少女」と注目するようになり、取材の申し込みが殺到したそうです。たいていの場合、顔も名前も伏せ、取材を断るでしょう。しかしベサニーは、取材を受けることにしたのです。「わたしは決意しました。テレビに出て自分の体験を語ろう、キリスト教の信仰にどんなに助けられたかを自由に話せるのならなおさらの事だ」こうして全米の注目を集めるようになったのです。
彼女は本の中で述べています。「わたしは、サメに襲われたことを大げさなメロドラマに仕立てないように気をつけています。それよりも焦点を当てているのは、わたしがそれまでの人生から拾ったかけらの数々を、以前とは違う新しい自分のパーツに合わせていることです。言わば神さまは、つかの間限りの世界の注目を与えてくれたのです。だから出来る限りそのチャンスを役に立つように活用した方がいいと思いました。」 正直言うと、サメに襲われた事について、何週間も何ヶ月も気持ちの整理をし続けたそうです。「でも、わたしには土台となる硬い岩がある。それは、神さまがわたしを愛してくださり、どんなサメにももぎ取られないわたしの人生の計画をお持ちだと信じることです」と彼女は述べています。
私達も、どんな状況に襲われても、揺るぎのない岩のようなしっかりした信仰の土台を築きたいと願います。なぜならば、神の与える約束は決して変わる事のない永遠の約束だからです。
今日、最後にぜひ覚えて頂きたい聖書の言葉 旧約聖書のエレミヤ書17章7節「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように」
お祈りします。