2016年12月3日 創世記41:1-37 「ヨセフの生涯④神の時に」

 

カレンダーもあと1枚になりましたね。と同じ事を去年の今頃も言った気がします。

年をとるごとに時間の流れが早く感じるというのを実感していますが・・・

ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、この「年を取るほど1年が早く感じるようになる現象」を「ジャネの法則」と言うそうです。

19世紀のフランスの哲学者のポール・ジャネが発案し、甥の心理学者であるピエール・ジャが書いた本で紹介した法則です。主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという現象を心理学的に解明したそうですが、年をとったら時間や経験が「じゃぁね」と言って過ぎ去るのでしょうか!?

 

 さて、40章と41章の間に、実に約2年の歳月が流れています。

その間、ヨセフは神を信頼し、最善の時を待っていました。37章でヨセフが夢を見たとき、その意味を理解し、約束の神は必ず助け出してくれると信じて、その時を待っていたのです。

ダビデは詩篇105篇17節から19節でこう歌いました。「主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」

神は目的を果たすために、すべてのものを意のままに動かしておられる、その主権の御手によって、あらゆる状況を用いられます。うっかりしてしまう事、悪意による偽りの告発、兄弟の憎しみなど、悪い事、否定的な事も用いられて、主はご自分のなさりたい事を主の主権によって行なわれます。主の恵みがとこしえまで続くという事なのです。

 

詳しく見ていきたいと思います。

 パロは2つの夢を見ました。どこに立っていたと書いてありますか? ナイル川のほとりです。ナイルはエジプトの守り神です。最初の夢は「ナイルから肉付きの良い7頭の雌牛が上がってきて、葦の草を食べていると、醜いやせ細った雌牛がナイルから上がってきて、肉付きの良い雌牛を食べつくしてしまった」という内容でした。次に見たのは「肥えた良い7つの穂が、一本の茎に出てきたけれど、東風に焼けたしなびた7つの穂が出てきて、そのしなびた穂が肥えた良い7つの穂をのみこんでしまった」という夢でした。この東風とは砂漠から吹く熱風の事で、東から吹かなくてもこう呼びました。この2つの夢はパロの心を悩ませ、エジプト中のすべての呪術師と知恵のある者達を呼び寄せたのですが、その夢を解き明かすことができる者がひとりもいなかったのです。

その時になってやっと、ヨセフと一緒に投獄されていた献酌官長がヨセフの事を思い出し、パロに提案します。9節から13節です。その提案を聞き入れたパロは早速ヨセフを呼び寄せます。パロはヨセフに言いました。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。あなたについて言われていることを聞いた。あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」そこでヨセフは「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」とパロに言いました。自分ではなく、神に栄光を帰しています。37章で夢を見て家族に話しているときは「自分はこういう夢をみたんだ!」と得意げに言っていたヨセフも神によって変えられ、謙虚な器に変えられたのです。「私ではなく、神です。神がそうしてくださいました!」とすべてを神に栄光を帰す霊的な姿勢を神は喜ばれ、ますます豊かに私達を用いてくださるのです。

 バプテスマのヨハネは「あのお方キリストは盛んになり、私は衰えなければなりません」と語り、またパウロも「私は多く働いたのは、私ではなく、神の恵みによるのです」と言いました。私達もすべての事において「主なる神がそうしてくださった」と言える者でありたいと願います。

17節から24節で、パロはヨセフにどんな夢を見たのか説明し、25節から36節が夢の解き明かしです。神がパロに見せたのはこれから神がなさろうとしている事を示されたのです。そして2つの夢は1つの事を強調して示しているのです。エジプトにまず7年の豊作があり、その後7年間の飢饉が起こること、このことがずっと後になって起きるのではなく、すぐに起きるという事を示しているのです。ヨセフは夢を解き明かしただけではなく、具体策も提案しました。神がヨセフに与えたのは夢を解き明かすという能力だけではなく、神の御言葉を正しく理解し、生活に具体的に適用するという能力も与えられていました。具体策として「さとくて知恵のある人を見つけ、その人をエジプトの首相にするように」もうひとつは「国中に監督官を置いて、豊作の7年間にエジプト中の産物の5分の1を徴収して蓄えるようにと提案し、パロと家臣たちは納得したのです。具体策を提案する・・・神がヨセフに与えた知恵でもあります。みんなが納得する提案をし、適任者はヨセフしかいないと事になっていくのです。

ここに至るまで、ヨセフは待ちました。神に信頼し、すべてを委ねて神の時を待ったのです。ガラテヤ人への手紙4章4節「ついにふさわしい時が来ると、神はご自身の御子を遣わされました。この方は、人間の母親から息子としてやってきて、ユダヤの律法のもとで生活しました」

 

12月になりました。クリスマスまであと22日ですね。神が人の姿をとって来られたクリスマスの時を、神はあらかじめ定められていました。その目的は私達を救うため、では何から救うためでしょうか? イエス様の話しを聞くまでは、自分が何かから救われる必要がある、とか救い主が必要だと考えた事をあまり考えたことはないかもしれません。クリスチャンになってからも、ひょっとしたら救われている事を考えた事があまりないかもしれません・・・。ちょっと考えてみましょう。何から救われる必要があると思いますか?

第1に、罪と自分自身から救われる必要があります。今、もし抱えている問題があるとすれば、そのほとんどは自分自身から来ています。他の人々が問題をもたらすとしても、自分がどう反応したのかで問題をこじらせてしまう事があります。ですから「自分自身の心」を神に変えていただく、自己中心という罪から救っていただく必要があるのです。イエス様との距離がまだあるようであれば、クリスマスの意味をもう一度考えてみてください。

第2に、救いは「解放と自由」です。罪責感、恨みや憤り、人々からの期待、依存、死への恐れからの解放と自由をもたらします。ヘブル人への手紙2章14節から18節リビングバイブル訳で、こう書いてあります「神様の子供である私たちは、血も肉もある人間です。 そこでイエス様も、血肉を持った人間の姿でお生まれになりました。それは、人間として死ぬことにより、死の権力をふるう悪魔の力を打ち砕くためです。これだけが、死を恐れて、一生涯、恐怖の奴隷となっている人々を、救い出す方法だったのです。私たちはみな、イエス様が、御使いとしてではなく、一人の人間、一人のユダヤ人として来られたことを知っています。イエス様には、あらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることが、どうしても必要だったのです。そうしてはじめて、イエス様は、私たちにとってはあわれみ深く、神様にとっては忠実な大祭司として、私たちの罪を取り除くことができたのです。自ら、試練と非常な苦しみを体験された主イエス様は、試練にあえいでいる私たちの苦しみをよく理解して、実にみごとに助けてくださるのです」

 第3に、救いは「私達に生きる目的を与えるため」です。第2コリント人への手紙5章15節「イエス様は、すべての人のために死んでくださったのは、イエス様から永遠のいのちをいただいて生きる人がみな、もはや自分で自分を喜ばせるために生きるのではなく、自分のために死んで復活されたキリスト・イエス様に喜ばれるように生きるためです」神に喜ばれる生き方をいつも考えていきたいと思いませんか?そのためには神の恵み、愛の中を生きる事です。 第4に、「恵み」によって救われたことを思いましょう。ヨハネの手紙第1の4章9節10節「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」

クリスマスにプレゼントを贈るという伝統がはじまったのは、最初のクリスマスの時に父なる神が、神の独り子イエス様を贈ってくださったからです。神からの贈り物であるイエス様を受け取って、もし大切にしまってあったり、飾ってあるだけなら、もったいないです。受け取ったら、その恵みを、愛を味わってください。ぜひ、今年のクリスマスはイエス様を味わう時にしていただきたいと思います。神の愛によって私達の人生を満たして頂けるよう、願い求めましょう。

 

19世紀半ばの出来事ですがある偉い身分の男性が、ノルウェーのとあるホテルに滞在していました。一人の少女が下のロビーでピアノを弾いているのが聞こえてきたのです。少女の奏でる音はひどいものだった。「ピロン、ボロン、ピロン」。その偉い身分の男性は、だんだん苛立ってきて、やめさせようと立ち上がったその時、一人の男の人がピアノに近づいてきて、少女の隣に座った。そして、少女が弾けないところを彼が弾いて埋めてくれたのです。すると、とても素晴らしい音楽が響き渡りました。後になってその偉い身分の男性は、少女の隣に座ってピアノを弾いた男の人は少女の父親で、オペラ『イーゴリ公』を作曲したアレクサンドル・ボロデインであったことを知ったのです。

 

ヨセフも神の時を待ち、神の助けを得ながら、用いられたように、私たちが自分の人生に神の御心を求めながら、御言葉を読み、御声を聞き、聖霊の強いうながしを受け、考え、神の知恵によって話したりアドバイスしたり、注意深く見て、待ち望むことにで、この少女のように自分の役割を弾いても、神は来てくださり私たちの横に座って、私たちの奏でる「ピロン、ボロン」をもって、私たちの人生から何か美しいものを作り出してくださるのです。