2016年12月10日創世記41:38-57「ヨセフの生涯⑤神が労苦を取り除く時」
「最近のNHKの番組も民放に負けない位の内容を放送してるな~」と思いながら見ているのはEテレの「ねほりん、はほりん人間予報」です。パペットが出てきて、いろいろな業界の裏事情の話をする展開の番組です。「へー、そんな事なのか!?」と感心しながら見ていますが、数週間前、元国会議員秘書の告白トークでした。選挙に当選させるために、どれほどの縁の下の力持ちとしての仕事をこなしているのか、他人からのバッシングにももろともせず、濡れ衣も平気で着こなし、泥水を自ら吸い、すべては国会議員にするために全力投球、めでたく議員当選となれば秘書としての仕事が継続、落選となればその瞬間、職を失う、それでも議員を応援する仕事に再就職するのは
なにより自分の存在が、その方のためになるなら どんな事でもします、それが使命です。
と、熱く語っておられましたが、今日の聖書箇所は、神に従い、パロに忠誠を尽くしているヨセフの姿から、神が労苦を取り除く時について考えてみたいと思います。
神の時に、ヨセフがパロの前に召しだされ、夢を解き明かすという神から与えられた能力を発揮し、いよいよ大胆に用いられる時が来たのです。
創世記41章33節で「さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように」とヨセフはパロに提案します。それに応じて38節パロは家臣たちに言った「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか」そしてパロはヨセフに39節から40節「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。 あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう」と言って、「指輪を渡した」という事は王としての権威をヨセフに委ね、命令を下す権利が与えられたという事であり、さらに亜麻布の衣服という高級な衣服、名誉のしるしである金の首飾りが与えられたのです。そしてヨセフは王の次に権威のあるエジプトの首相となりました。そして45節「パロはヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻にした」とエジプトならではの最高の配慮まで頂けたヨセフ。これまで、ヨセフは何度も理不尽な状況に置かれました。しかし、主が共におられたので、その状況にあっても神に絶えず感謝してきたヨセフ。そして月日がたち首相になったヨセフの人生は私達に大きな励みとなります。
この時ヨセフは30歳。エジプトに来て約13年の時が経っていました。エジプト人としての名前をもらっても、エジプト人の妻をもらっても、ヨセフは決してエジプト人に同化したわけではありませんでした。この13年、いつもどこでも主がともにおられた事、神から与えられた使命を一番身に染みてわかっていたのは、ヨセフ自身です。振り返ってみると、いつでも神の助け、恵みがあったのです。
ヨハネの福音書1章1節「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」この箇所の「ことば」ギリシャ語ではロゴスですが、この書物を書いたヨハネはユダヤ人ですから、ヘブル語の「メムラ」という言葉をギリシャ語の「ロゴス」を使ってイエス様の事を紹介しました。創造主、希望の光、神と人間を仲介する執り成しをしてくださるお方、啓示を与えてくださるお方、いつも共にいてくださるお方なのです。
クリスマスを覚える時、神が人の姿をとって、私達の希望の光となって来られたメシアである事を覚え、私達もこの一年、神様がどれほど恵みを与えてくださったのかを数え、感謝を捧げましょう!恵みを数えましょう。
主イエス様のご降誕を待ち望むこの時、町中を歩くときに聞こえてくる賛美歌や、さまざまに飾られるクリスマス飾りの一つ一つに、福音のメッセージが込められています。これほどイエス様のことを伝えやすい季節はないでしょう。この時期にイエス様を知らない多くの方々に主の事を伝えるのが私達の使命です。クリスマスには必ずキャンドルが灯されます。ろうそくの光は闇の中に輝くいのちの光イエス様の象徴です。イエス様ご自身が「わたしは世の光です」とご自分を語られました。人生の闇を照らし出し、明るくし、人々を罪から神様へと導くまことの光がイエス様です。「イエス様が私にしてくださったことを証しできるように整えてください、語ることばを与えてください」と祈り、神から与えられた使命に生かされていきたいと思います。
ヨセフは民のために、神から与えられた使命を果たすべく働きました。そして示された通り、7年の豊作の中、飢饉に備えるために蓄えました。飢饉が来る前に、二人の息子が与えられました。長男を「マナセ」これはヘブル語の名前です。意味は「兄たちに苦しめられた事、エジプトでの苦しい記憶をすべて忘れ、解放された」という事です。また次男には「エフライム」ヘブル語で「実り多い」という意味です。ヨセフはエジプトの首相となってもなおエジプトを苦しみの地であると思っているのです。カナンがアブラハム、イサク、ヤコブの神が約束した地であり故郷なのです。ヨセフにとってもの帰るべき故郷カナンがあるように、私達にも魂の故郷があります。天国です。
ヨセフは願えばすぐにでもカナンに帰れたかもしれませんが、そうはしませんでした。神の時を待ったのです。私達も神の時を待ちましょう。神の時は最善の時です。
神はパロの見た夢を通してヨセフに解き明かしと知恵を与えました。7年の豊作の時に、次に来る7年の飢饉に備えなさいと。
私達にも神は啓示を与えて下さいっています。ヘブル人への手紙9章27節28節「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」私達は死ぬことは決まっている事は誰も反論はしないと思います。死後裁きを受けることが決まっているとは、私達は神の前に立って「あなたの人生をどう使いましたか?イエス・キリストをどうしましたか?」と質問されるのです。
初めてのクリスマスの時にイエス様は全人類の罪を贖うために来てくださいましたが、もうそれは既に起こったのです。
そして二度目、「今度はイエス様を待ち望む人々のために来られるのだ」と言っているのです。私達はその時がいつかはわかりませんし、イエス様も知らないとおっしゃいました。ただ天の父なる神のみがご存知なのです。その時は必ず来る、けれどわからないからこそ、日々を主に信頼して期待して準備するのが、私達のもうひとつの使命であり、希望です。
第1テサロニケ1章10節「また、神が死者の中からよみがえらせてくださった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが、天から来られるのを待ち望むようになったのか、それらのことは他の人々が言い広めているのです」(リビングバイブル訳)
内村鑑三は「十字架が聖書の心臓部分であるなら、再臨は脳髄である」と言いました。再臨がなければ完成はあり得ず、キリストの十字架の死と復活は無駄になると言ったのです。それほどに再臨は重要な事柄です。敵であるサタンは必死になってこの教えを混乱させ、脱線させようとしています。キリストの再臨を正しく理解し、それをいかにして待つのかが大切なのです。
ヴォイス・ファクトリイ代表の輪嶋東太郎さんを紹介します。
輪嶋さんは最近、あるニュースレターに「再臨の福音をすべての人に」というコラムを書いておられます。
どんな方かというと、テノール歌手ベー・チェチョルさんをサポートした方です。ベーさんは2005年までヨーロッパのオペラ界で、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍していたましたが、突然甲状腺がんの宣告を受け、その摘出手術で人間が声を発するために必要な全ての神経を切断、一度は完全に声を失いましたが、再び声楽家として復活を果たすという、これまでの常識ではありえない奇蹟を体現した人です。輪嶋さんは、2003年にベーさんを初めて日本に招聘しました。当時日本ではベーさんはあまり知られてなかったのですが、べーさんの歌声があまりの素晴らしかったので「この人と一生仕事をしたい」という衝動に駆られ、最初は仕事のパートナーとしてでしたが、今日まで続く二人の歩みが始まりました。
輪嶋さんのお書きになった証しを、お読みます「病気に倒れる前、自信に充ち溢れるベーさんの姿は舞台上でまばゆく輝いていました。そこから一転して絶望と暗闇の中をさまよう日々。そして世界で初めての挑戦となる声帯機能回復手術を引き受けて下さった一色信彦京都大学名誉教授との出会い、そして私も手術にも立ち会いました。その後の医学的常識を超える回復から今日に至るまで、輪嶋さんとベーさんは常に共にいました。その過程の中で神様の御業としか考えられない多くの導きを目の当たりにしてきたのですが、それにもかかわらず、洗礼を受けるまで、自分が大のクリスチャンアレルギーでいつも批判していた事を、いま懐かしく思い出しています。
それまでの私は「クリスチャンの人々が崇める神だけが、神ではない」、そう思い、各地の神社仏閣にもまめに参拝し、先祖の墓を大切にする、一般的に言う典型的な「信仰深い人」でした。そんな私ですから、べーさんが声を失った時「彼はクリスチャンで、先祖供養をしてないからこんなことになったんだ」とまで批判的に思ったものです。
しかし、私は神様から大きな試練を頂きました。この地球上に、当時の私の置かれた状況を解決する道など、一つも見当たりませんでした。具体的な状況は違うものの、べーさんが命ほど大切な声を失って初めて本当の意味で神様に出会ったのと全く同じ道を、私自身もたどる事になったのです。無意識のうちに自ら命を絶ちそうになる程の絶望の真っただ中で、私はハ・ヨンジョ先生の書かれた一冊の本を手にします。その本はべーさんがラブ・ソナタ(韓国の方が日本のために祈り、大きな集会を開いているもの)に参加した、私も同行して頂いたものでしたが、ずっと本棚でホコリをかぶったままになっていたあの本を、なぜ手にしたのか、今も不思議でなりません。乾いた大地に、慈愛の雨が降り注ぐように、聖書の御言葉が私の魂に入ってくるのを感じました。それは生まれて初めて感じる感覚でした。絶対的な愛に包まれるような平安としか表現できないものです。「神様におできにならないことはない。私はこれまでベーさんを通してそれを見てきたはずなのに、私の目には見えていなかったんだ…。」とめどなく流れる涙の中でそう感じた瞬間、私は完全に生まれ変わったのかもしれません。
そして奇蹟は起こりました。自分を捨て、全て神様に委ねた瞬間から、まるで魔法のようにどんどんと道ができ、その状況は解決したのです。思えば、ベーさんの時も同じでした。もしも、あのまま、イエス様と出会えず、神様の愛を知らずに生きていたら…、そう考えると恐くなります。神様におできにならないことは何もない!
気がつけば、彼と歩んだ年月は10年以上になりました。その歩みを通して、あれほどのクリスチャンアレルギーであった私が神様と出会い、今では彼は私にとって人生で最も大切で尊い「友」であり、神様によって与えられた「兄弟」になりました。これまで、べーさんと私は二つの車輪のようだと、多くの方に言われてきました。私が神様と出会えたことで、今初めて、目的に向かって真っすぐに進むことのできる両輪になったのだと感じています。私たちを出会わせて下さった神様のご計画、そのご計画が成されるために、これからも私たちは共に神様のお作り下さる道を歩き続けたいと思います」
2008年に作成された映画「THE TENOR」がありますが、べーさんの舞台復帰の時に出版された自伝『奇跡の歌』の最後の章で、私は「ここ数年に私たちに起こった事を振り返ると、まるで誰かによって完璧に書かれたシナリオに基づいて撮影された映画を、客席から見ているような不思議な感覚に襲われます」と記しました。そして、それが今現実のものとなり全国で一斉公開されたのです。先ほど、輪島さんの証しであった「大きな試練」というのは、この映画の制作の過程で上映中止とされた事ですが、それでもこの作品が完成し、BS-TBSの配給によって全国の方に見て頂く道が開かれたことを思うと、この作品を通して神様が何かを伝えようとなさっていると確信せずにはいられません。
ベーさんや、輪島さんに起きた奇跡は、私達ひとりひとりに起こります。どうぞ、その奇跡に築いて、神に感謝をささげる事ができますように。
イエス様がお生まれになったとき、み使い達の軍勢は羊飼いたちの前に現れて、神を賛美してこう言いました。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」