20161119日 創世記39章「ヨセフの生涯② 主が共におられたので」

 

 前回は真也先生からユダとその家族についてお話し頂き、どんなに失敗があったとしても、悔い改める時、主が報いてくださる。そして聖書はきれい事ばかりではなく、人間の弱さも記述されていて、それでもなお神様のご計画の中にひとりひとりの人生を組み込んでくださるという事、そしてユダはユダ部族の長として、またユダ部族からイエス・キリストが生まれるという事が成就した事も学びました。もう街ではクリスマスの雰囲気がありますね~。今年はクリスマスまでを数えるアドベントが1127日日曜日から始まります。先週イエス・キリストの系図についてマタイの福音書1章から真也先生が簡単に説明してくださいましたが、イエス様はマリヤ様が聖霊によって身ごもり、夫ヨセフとの間に生まれ育ちました。マリヤも「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と言われた一人です。

今日の創世記39章に登場するヨセフも「主がともにおられた人」です。創世記37章からの続きです。

兄達から恨まれ、イシュマエル人に売られ、その後エジプトへ連れていかれた時に、エジプト人であり、王の家来の中で一番偉い地位にあったポテイファルがヨセフを買い取りました。今日はそのポティファルの家での出来事を通じて、神がどのようにご計画を成し遂げていくのかを見ていきたいと思います。

まず、エジプト人の廷臣(ていしん)ポティファルという人物についてですが、彼は王に仕える宦官(かんがん)で王の護衛隊隊長でした。宦官ですから男性としての機能がない去勢されていたのですが、結婚を許されていたので妻がいたわけです。彼は人を見る目が養われていましたから、ヨセフの才能を見越して彼の家で使用人として使おうと、買い取った訳です。

ヨセフにとって今までとは全く違った生活が始まりましたが、ヨセフは気落ちするのではなく、忠実にその役割を果たそうとします。それが出来るように、主が共におられたのです。「主」と書かれていますが、原語は「ヤハウェ・アドナイ」契約の神という意味です。その契約の神がいつも主におられたので、ヨセフは祝福されました。主によっていつも祝福されているヨセフによってポティファルの家は祝福されていたのです。ポティファルにはそれがわかっていましたが、信仰には結び尽きませんでした。いずれにしても、始めは下働きでしたが小さいことに忠実に働くヨセフにポティファルは、食べ物以外のすべて財産から何から管理を任せたのです。「わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの者を任せよう」とマタイの福音書2520節にある通りです。ポティファルはヨセフを大切に扱いましたので、祝福を受けたのです。アブラハム契約をおぼえていらっしゃいますか? 創世記123節で神がアブラハムに約束した言葉「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」この通りにアブラハムの子孫であるヨセフを大切に扱ったのでポティファルは祝福されたのです。

 ヨセフにとっては使用人としての全く新しい生活が始まったのですが、主が共におられたので祝福されたという事が分かります。新約聖書のローマ人への手紙835節から39節で、パウロはこう言いました。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」

この言葉は、当時の強烈な迫害の中にいるクリスチャンを励ますために書かれたのですが、信仰を持つ私達も困難に会う時に、それによって信仰を手放すことがないようにと励まされる御言葉ですね!

 

環境が変わった中で大切に扱われたヨセフに危険が迫ります。今日お読み頂いている箇所の7節から20節です。ヨセフは体格もよく美男子と書かれています。それに目を付けたのがポティファルの妻です。先にも述べましたが、ポティファルは宦官(かんがん)でしたから、妻として心満たされない状態にあったのかもしれません。そこにいわゆる若い素敵なイケメン青年がやって来たのです。彼女はヨセフに言い寄りました。7節「私と寝ておくれ」これはある意味逆セクハラ、パワハラです。同時にヨセフにとっては大きな誘惑です。この誘惑に陥らないようにとヨセフが心に留めていた事は「ご主人様があなた以外には私に何も差し止めていないのです」という事でした。それは主人に対しても、また主である神に対しても忠誠を尽くし、罪を犯さないという決意です。ヨセフにとって家族から切り離された今、神だけが心の拠り所ですから、そんな誘惑にのる事は考えられないのです。それでもしつこく彼女はヨセフに毎日言い寄りましたが、ヨセフは拒み続けました。そんなヨセフが追い込まれる状況に直面します。11節以降です。仕事をしようとヨセフが家に行くと、彼女以外誰もいないという状況でした。彼女としては言い寄るのに絶好のチャンスとばかり、ヨセフの上着をつかみ言い寄りますが、ヨセフはその上着を彼女から取り返すのも忘れて逃げたのです。誘惑にあったら「逃げるが勝ち」です。新約聖書第2テモテ222節でパウロはこうアドバイスをしています「あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」

誘惑の現場から逃げたヨセフに対して、恥をかかされたとばかり怒る、ポティファルの妻。なんとも卑怯な言いがかりをつけます。14節から18節です。大声をあげて家の家来たちを呼んでヨセフを悪者にしたて上げる。ヨセフだけではなく主人であるポティファルにも恥をかかせています。「ご覧、主人は私達をもてあそぶためにヘブル人を私達のところに連れ込んだ」と言っています。夫婦関係がかなり悪かったのでしょう。ここまで言うか!とビックリしますが、聖書にこんなことまで記録されるほど、夫婦仲の悪かったポティファル夫妻。帰宅したポティファルが事の次第を妻から聞いて、怒り心頭! ですが幸いな事にポティファルも妻の言う事を100%信用していたわけではないので、本来なら死刑に値する姦淫の罪ですが、ヨセフを殺すのではなく王の囚人のいる一番厳しい監獄にヨセフを入れました。実に神は憐れみ深いお方、夫ポティファルを神がお用いになります。

 理不尽な事で投獄されたヨセフ。それでも神を恨まず、主なる神はいつもヨセフと共におられたので、恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにしてくださり、囚人についてもその管理についてもヨセフに任せたのです。39章には何度も「主が彼とともにおられたので」と出てきます。同じように、主イエス様を信じる私達にも共にいてくだるのです。

 

イザヤ書639節「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」このイザヤ書の「彼ら」はイスラエルの事ですが、同時に信じる私達が苦しむときに、必ず主が贖い助けてくださり、倒れそうな時は支えてくださるのです。

 

 先月末に大角先生がメッセージをしてくださいました。峰町キリスト教会では毎月月報が発行されますが、いつも最初のページは大角先生のコラムです。とても味わいのあるコラムで、私は愛読者の一人ですが、11月号は「私の『足あと』というタイトルでした。お読みになった方もいらっしゃると思いますが紹介させて頂きます。・・・

 5年間暗闇の中を通って来た方のことばを聞いた。心の琴線が胸の奥で何度も共鳴していた。孤立無援で非難の声に(さら)される日々。刺すような視線に(おび)えてもいた。神の言葉を取り次ぐ務めなのに、神の声が聞こえない。御顔が遠くに(かす)んでいた。日々意識を失っていくわが子に胸が痛み、自らの手術(あと)(うず)く。夜の病室は暗く、冷たい。横たわるわが子の体温が42度を超えていたのに、私の心は凍えていた。目の前には燃え尽きて炭と化した家の柱がある。靴も燃えて、裸足で立ち尽くしていた。いったいどれだけ失えばいいのか・・・。作り笑いの頬は微妙に(ゆが)んでいた。

ベテスダの池のほとりに38年間病で()せっていたが、癒されて歩きだした男に、主が言われた。「もう罪は犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから・・・」辛く、恐ろしく聞こえることばだった。「悪い事が起こるのは自分のせいなのか?」生まれつきの盲人にさえ「神の業が現れるためだ」と言われたのに「なぜ?」自分で歩けたのに歩かなかった男。自分が治らないのを人のせいにした男。男と私は同じだったのだ。神様さえ非難の対象とし、自らを悲劇の主人公にする男と私。

自分で悲しみを引き込み、嘆いていただけだった。主は男と私に「起きて、床を取り上げて歩け」と言われた。過去の生き方と決別して、新たな歩みを始めろと言われたのだ。

 最善しかなさらない主。その愛は何があっても変わらない。私の杯は常にあふれている。そんな思いで生きる新しい歩みに私達は招かれているのだ。私の前には未踏の砂浜が広がっている。振り返れば、主と一緒のはずなのに一人分の「足あと」だけの所もある。私も背負われていたのだ。うずくまっていた時には(かたわ)らに主も腰を下ろしてくださった。あの時、主は一番近くにおられたのだ。私の「足あと」はこれからも続く。 

あなたもあなたの「足あと」があるはずです。一人分の「足あと」の時の事を。主は誰よりもあなたのそばにいてくださいました。そしてこれからも、主はあなたを離れる事はありません。主との「同行二人」の旅は続きます・・・。

 ご存知の方のいらっしゃいると思いますが、大角先生はお嬢様が8歳の時に脳腫瘍のために天に送りました。いろいろと心労もあり病に臥せって入院されたり、またご自宅も全焼の火事となり、一切を失ってしまった経験があります。それでもここにあるのは「憐れみ深い神の愛に支えられている、主が共に歩き、背負ってくださる」とおっしゃいます。

 私達にも同様に共に歩いてくださっている主がおられるのです。今、何か受け入れがたい困難に直面しているなら、思い出してください。主が一緒にいて下さる事を。「どうしてですか!」と叫ぶとき、思い出してください。「すべてを委ねなさい」と手を差し出して下さっているお方を。神は全てを働かせて益としてくださり、必ず解決する道を備えてくださるのです。

 

 ヨセフは濡れ衣を着せられて監獄に送られましたが、そこでいよいよ神がヨセフに与えられた賜物が発揮されていくのです。それは次回から詳しく見ていきたいと思いますが、窮地に置かれたからこそ、神の助け、ご臨在を感じる事が出来るのです。

 

中世期のドイツの神学者の一人であるヘンリー・スウソオさんに起きた出来事を紹介します。

ある夜、彼の家の玄関のドアを激しくたたく音がしたので外に出てみると、赤ん坊を抱いて髪をふり乱した女性が立っていました。「これが、あんたがまいた罪の実なんだよ」を赤ちゃんを手渡されて、何のことかさっぱり身に覚えのないスウソオを無視して、女性は逃げ去ってしまいました。この様子を見ていた近所の人がその事を町中に言いふらしました。今までは人々から尊敬されていた彼が、一日のうちに偽善者と見られるようになってしまったのです。彼は苦しみ、悩みました。「主よ、どうしてこのような濡れ衣が、私にかけられるのでしょうか。主よ、どうして誰ともわからない女性の行為を他のみんなは信じて、どうして私を信じないのでしょうか。あなただけが私の潔白をご存じです」

 苦悩の叫びの中から、イエス様が彼にこうおっしゃいました「私が行なったように、あなたもしなさい。他の人の罪のために苦しみなさい。それだけでなく、沈黙していなさい」イエス様の十字架をまさに自分の十字架とせよというのです。彼はイエスのみ声に完全に従いました。彼の信用を一瞬にして粉々にしたその赤ちゃんを、心から愛して育て始めたのです。数年後、女性自らがスウソウの潔白を明らかにした時には、彼はイエス様に似たものとされていました。スウソウは、自分の潔白を晴らそうと躍起になるのをやめ、主の前に静まり、忍耐と愛をもって、その場を耐え忍んだのです。その結果、嵐は過ぎ去り、全てが益と変えられたのだ。

 私達も、理不尽な状況に陥った時、どうしようもない時は、静まり、そして時の流れを、神様の最善の時を待つ事で、主は必ず働いてくださるのです。

 詩篇の作者ダビデ、サウル王の嫉妬から追われ、その理不尽な事で悩み、神に祈った一人です。

詩篇910節「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てにはなりませんでした」

詩篇171節「主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを」

私達も神の前に心の内を注ぎだし、必ず支え導き、勝利を与えてくださる主に目を向けていきたいと願います。