20161015創世記35:1-15「立ち上がって」

 

ノーベル文学賞をボブ・ディランさんが受賞しましたね~。「blown in the wind風に吹かれて」などは有名ですし、彼の書く曲は深い意味のある曲が多いです。

彼の祖父母はウクライナやリトアニアから戦争と迫害から逃れてアメリカにきた移民のユダヤ人、ボブ・デイランさんもユダヤ教の影響のもと育ったようですが、1978年37歳の時にイエス様を信じてクリスチャンになりました。ボブ ディランさんがノーベル文学書を受賞することで、また彼の曲を通じてイエス様の救い、愛、希望に触れる方も増えてくることを願います。

 

前回はヤコブの息子達の残虐な行為、恐ろしい出来事、絶望な中であっても、神の憐れみは尽きないことを学びました。

その憐れみ深い神は、ヤコブとその家族を守り導くためにヤコブに語られました。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい」

心痛むほどの思いをしたヤコブに対し、神はヤコブがシェケムにとどまってしまった事をとがめるのではなく、むしろ、ヤコブの霊的生活において全ての始まりとなった「ベテル」に行きなさいと言われたのです。

 私たちは自分の犯してしまった過ちを悔います。その悔いはとても大切です。それがなければ、私たちはいつまでも罪の中にとどまり、神に立ち上がることはなくなります。けれども、自分がしてしまったことを悲しむこと以上に、神はもっと大事なことを話してくださいます。とがめるのではなく、愛をもって励まされるのです。ヤコブにとってのベテルは、「初めの愛」だと気づかせるのです。

黙示録2章4節、5節「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい」初めの愛というのは、私たちが初めに知った神の愛のことです。

ヨハネの手紙第一4章9節には、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです」とあります。ヤコブは神のことを知っていましたが、神との初めての出会いはこのベテルでした。

ヤコブは確かに広い意味での約束の地にいて財産も取得し、安定した生活を送っていましたが、その時に忍び寄ってきたのが偶像的生活でした。周囲のカナン人が行なっていた偶像を、習慣として身につけてしまっていたのです。そんな中で起こった娘の事件と息子が犯した残虐な復讐するという、とんでもない事が起こったのです。そこで主は、「立ち上がりなさい」と言われました。私たちに対しても、主は同じように語られます。物事が上手くいかなくて、後悔や自己憐憫に陥っている時、「立ち上がりなさい」と言われるのです。

詩篇119篇71節「苦しみに会ったことは、 私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」「苦しみに会ったことは幸いだ」と言えるのは、主への全き信頼があるからです。詩篇119篇65節には「【主】よ。 あなたは、 みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました」と書かれています。主のみことばは決して変わること無く、永遠にまで続くものです。自分の都合のいいように自分にみことばを適用するのではなく、みことばに自分を従わせていく姿勢です。これこそ、「悔い改め・神に心を向ける事なのです。みことばは私たちを励ましてくれます。神の言葉に立ち上がる力を与えられ、ヤコブは家族といっしょにいるすべての者に言いました。

今日の箇所の2節、3節「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう」

 このヤコブの言った言葉で、どれほどヤコブの家族は(まこと)の神から遠ざかり偶像礼拝をしていたのかがわかりますね~。娘のディナの事件と息子達の失態を通じて真の神に立ち返り、立ち上がって、神の示される地へ、ベテルへと、ヤコブ自身が初めて個人的に神に出会ったその場所へ行き、心から礼拝するためにそこへ行こうと、行動を起こすのです。

神に心を向け直した証しに4節にあるように持っていた異国の神々、耳につけていた魔除けになると言われている耳輪、もちろんラケルが隠し持っていたテラフィムも、樫の木の下に埋めました。神はヤコブ一家を復讐の攻撃から守るために、その地に残っている人々に恐怖心を与えておいてヤコブ達を追ってこないようにさせてくださいました。そこまで神は配慮してくださるのです。ヤコブ一家の信仰生活の出直し、リバイバルです。こうしてヤコブ一家はベテルに到着し、祭壇を築き「エル・ベテル」と叫びました。33章20節でシェケムの町に祭壇を築いた時に「イスラエルの神である神」と名付けた時とは大違いです。

やっと神との約束の地ベテルに到着した後に、亡き母リベカの乳母であリ、ヤコブの家族の一員として加わっていたデボラが亡くなります。そして樫の木の下に葬られその樫の木は「アロン・バクテ 嘆きの樫の木」と呼ばれました。

 私達の人生、祝福の時もあれば、悲しみの時もあります。それでも主を見上げ前進していくのです。

 神が再びヤコブに現れて祝福し、仰せられました。「あなたの名はこれからヤコブ〔「つかむ者」の意〕ではなく、イスラエル〔「神に勝つ者」の意〕としなさい。わたしは全能の神だ。あなたに子どもをたくさん与え、子孫を増やそう。彼らは大きな国となり、たくさんの国が分かれ出る。あなたの子孫から何人もの王が出るのだ。わたしがアブラハムとイサクに与えた土地はみな、あなたとあなたの子孫のものだ」ヤコブ個人への祝福、ヤコブの子孫への祝福、そして現在のユダヤ人、イスラエルへの祝福へと流れていきます。

現在のイスラエルの状況をニュースなどで見る時に、イスラエルへの、ユダヤ人への祝福とはいったい何だろうか?と疑問に思われる方もいらっしゃると思います。

聖書はイスラエルはイエス様のご再臨の後に世界の祝福の基となり、光となると預言しています。ですから、私達クリスチャンの役目は、イスラエルのために、ユダヤ人のために祈り、支援する事です。

イザヤ46章6節「主は仰せられた「ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」とある通りです。

 

詩篇135篇4節「まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた」にあるように族長ヤコブ、もしくはそのヤコブの子孫であるユダヤ人をさしています。神が愛する者を愛する役目があります。

詩篇122篇6節「エルサレムの平和のために祈れ。『おまえを愛する人々が栄えるように。』」イスラエルを祝福する人々が祝福を受けるのです。

ユダヤ民族のおかげで、私達はイエス様の愛を知り救われたのですから感謝するべきです。イスラエルは日本の四国ほどの小さな国ですが、イスラエルの農産物をはじめ、日本の企業が、政府が提携するほどのIT技術、セキュリティー技術、医療技術をもっている国です。イザヤ書27章6節「ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」

神がヤコブに与えた約束は今も有効であり、私達はこのことを覚え感謝をもって、イスラエルのために祈る必要があるのです。

 

ヤコブは神が現れた場所に石の柱を立て、ブドウ酒をそそぎ、油・これは一番搾りの精錬されたオリーブ油を注ぎ、礼拝の場としました。私達も、もう一度イエス様に出会い救われた喜びを思い返してみましょう。どれほど神が私達を愛して下さっているのか・・・ローマ5章8節「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」

私達が「神様からずれている罪」の状態にある時から、神は私達を愛し、イエス様を遣わし、十字架についてくださり、死を打ち破り復活してくださいました。聖書に登場する人達のことを読んでみても、アブラハムにしても、イサクにしても、またこのヤコブにしても、決して完全無欠な人間ではなく、いろいろな弱さや悪を抱えていて、それでもなお神は目を留めて下さって、恵みと憐れみをもって救いに導いてくださっているのです。

ペテロの手紙第1の1章3節「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、いける望みを持つようにしてくださいました」

 

私達にとっての生ける望みとはなんでしょうか?  肉体の死の向こうでの天国での永遠の命もそうでしょう。神のご支配の中に今置かれている、神に愛されている、全知全能の神がいつも共にいてくださる希望に生きることでしょう。

 

1960年代、ある大学山岳部員数名が、薬師岳で亡くなりました。OBは、「装備は完全。批判さるべき点は何一つ見つからぬ」と発表しましたし、遭難した彼ら自身のメモにも「われわれは絶対に全員帰る。その気力充分」と記されていました。しかし、遺体からは磁石が見つからず、地図と磁石は山小屋に置かれていました。完全な装備、充分の気力、それらは彼らの真の必要事ではなかったのです。磁石と地図、このありきたりの品物こそ、彼らの真の必要であったのです。

 同じ頃、カナダの雪山に、アメリカ人パイロットと女性一人が不時着し、マイナス四〇度の山中で五〇日も生き延びて、奇跡的に救出されました。パイロットは肋骨、女性は手足を折っており、その上、たった二個の缶詰と一箱のクラッカーだけで、彼らは生き延びたのです。何がこの奇跡を起こしたのか、わかっていることは、女性の持っていた一冊の聖書を、彼らが繰り返し読んでいた、という事実だけです。復活のイエス様への望みが、聖書のみ言葉が、彼らに生きる希望と平安を与えたのです。聖書は、真の人生の磁石と地図です。

神の御言葉に支えられて、主に心を向けて、信仰に立ち上がって日々を進みたい、と願います。

 

 詩篇119篇105節「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」