ワシントン大学であった話です。英語学の期末試験での事。このクラスは800人も学生がいたので、多くの1年生をこの試験によって振り落とすための試験を行いました。この教授は時間に厳しい事で有名でした。開始時間、終わる時間も厳しく見ていました。試験は2時間の試験ですが、時間を1秒でも過ぎたら答案は受け取らない、そのような方針を持っていたのです。試験が始まり生徒たちが答案に答えを書いていました。30分後、1人の生徒が遅れて入ってきました。そしてテストを受けようとしたのです。すると「バスが遅れて今になってしまいました。」理由が理由だったので答案用紙を与えました。でも、その時にこう言いました「絶対に時間を過ぎてはいけない。むしろこれを2時間以内で提出するのは不可能だがな・・・」
テスト開始から2時間が経ってぴったりの時間に答案が集められました。しかし、やはり遅れてきた彼は持っては来ません。教授が声をかけます。「もう終わりだぞ。」すると彼は答案を持ってきました。彼は「全部埋められませんでした・・・。でも進級はできると思います。」と言ったのです。でも教授は「私はそれを受け取らん。私を誰だか知っているだろう」と言ったのです。すると生徒はこう言ったんです。「では私を誰か知っているんですか?」教授は「何を言っているんだ!数百人もいて覚えているわけないだろ。お前は何様だ!」すると生徒は「よかった!」といって教授が持っていた答案の束に自分の答案をギュ!といれて去って行ったそうです!
これだけ大勢の生徒の答案があり、彼が誰だか分からなければその答案をみつけようがないですもんね!軍牌は生徒に上がったのです!知恵というか、ズル賢いといいますか!?
聖書を読んでいると「なぜこのような事が?」と思うような事がありませんか?時には答えを探しても答えを導き出すのが難しい場合があります。今日の箇所も「なぜ?」と思ってしまったり、何か目を覆いたくなるような場面の一つです。
どのような出来事であったかというと、この箇所はカナンの地の一つシェケムでの出来事です。ヤコブとその家族たちがシェケムという地に来ました。ここでどんな事が起きたかというと、ヤコブの娘のディナがその地にいたヒビ人の族長ハモルという人の息子シェケムという人にはずかしめられる、肉体関係を強引に結ばせられるという出来事です。そして後にどのような話になるのかというと、最終的にはヤコブの息子たちが怒りを燃やし、この地のヒビ人を根絶やしにしてしまうという出来事が起こったのです。
なんとも痛ましい出来事でしょうか。これを読むと「なぜこのような事が」と思ってしまうようなところです。でもこの箇所もみ言葉の一つです。そうであるのならば、このみ言葉も私たちに何かを教えてくれる箇所なのです。私たちを光に導き出してくれる箇所なのです。
まずは、この箇所を通して私たちの信仰生活において大切な事を教えてくれます。
ヤコブの娘ディナは、そもそもなぜそのような目に遭ってしまったのでしょうか?それはV1であるように「その土地の娘たちを訪ねようとして」と書いてあります。つまり、ディナは自らその土地の人たちと交流をしに行ったのです。もしかしたら、それが好奇心だったのかもしれません。そこでシェケムの目に止まってしまったのです。そしてシェケムに強姦されてしまった。でも実は当時の文化において、カナン人たちは結婚する前に、まずこのように肉体関係を結んだのだそうです。そして自分の相手を見極めてから結婚する、という風習があったのです。だからある意味、彼らにとっては普通の行為でした。しかし、もちろんそれは神様と契約を持つイスラエルの民が持つ文化とは違っていたのです。ですから、この後ヤコブのところにシェケムの父のハモルが平然と来て結婚の話をしています。現代の私たちが読むと何か変な感じがしますね。強姦した女の子の親のところに強姦した者の父が訪ねて平然と結婚の話をしているのです。何も謝らないでただ結婚を申し込んでいたのです。でも当時結婚の事に関しては当人同士ではなく族長同士で話す、これも決まりとしてあったので、ヒビ人、カナンの地方に住む人たちにとっては当然の事でした。
<1この世と調子を合わせてはいけません>
この現代においても「普通はなんなのか?」という事が叫ばれています。道徳的にも倫理的にも普通という価値観が揺るがされています。世界では同性婚が認められたり、結婚という概念さえ揺らいでいます。結婚前に同棲をしたり、結婚しなくても一緒にいる「事実婚」なんてのもあります。これも世の中の風潮と言ってもいいかもしれません。
私たちも年をとると「時代遅れ・・・」とか「ジェネレイションギャップ」なんて言葉をよく聞きます。確かに時代が進んでいくといろいろなものが様変わりします。テクノロジーの進歩。言葉も変わります。コミニケーションの仕方も変わってきました。では道徳観や倫理観はどうでしょうか?
私たちの教会ではこう言いますね。道徳に「遅れてる」も「進んでるもない」。「正しい」か「間違っている」かだ、という事です。つまり道徳観に関して若い子が、「遅れてる〜・・・」という言葉を口にした時に「遅れてるんじゃなくて、それは正しいの?間違っているの?」と聞くべきだという事です。なぜなら世の中やテクノロジーは変わっていっても、人間の本質は変わってはいきません。だから道徳観において私たちはいつも正しいのか?間違っているのか?という視点で考えるべきですね。その正しい道徳観を私たちに教えてくれる唯一のものが、この聖書のみ言葉です。この聖書のみ言葉は、歴史を追ってみても人間に正しい道徳観を繰り返し、繰り返し教えてきたのです。
例えば歴史において聖書は、民主主義や国々の法律の基礎となっています。特に十戒の精神(父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。隣人のものを欲しがってはならない。)は、多くの国、特に先進国の法律の基礎となっています。これは日本もそうですね。
リンカーン大統領の有名な言葉で「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉があります。これは多くの国で行われている民主主義の基礎となっているといわれますが、これは実はウィクリフの英語訳聖書という聖書の序文から引用したものです。本来は「聖書は、人民の、人民による、人民のための政治を可能にする」という言葉でした。
また聖書の隣人愛、平等の価値観なども社会、多くの学校、病院の設立など原動力ともなりました。
アメリカのクリスチャン大統領の1人のルーズベルトも「聖書を教えない単なる教育は、無責任な人に鉄砲を渡すようなものである。」と言いました。私たちの人生においてみ言葉こそ何が正しいのか、間違っているのかを教えてくれるという事です。
ヘブル4:12
神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別する事ができます。
だから私たちは世界がどんなに進もうとも聖書の言葉の上に立つべきです。いろいろな状況において「若い子が言っているから合っているのかな」、とか、「ニュースや有名なジャーナリストがこう言っているから」ではなく、聖書はなんと言っているか?という立場に立つべきですね。伝道師パウロも当時発展していたローマの人たちにこう言っています。
ローマ12:2
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良い事で、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
「この世と調子を合わせてはいけない」つまりこの世の中は変わっていくけれども、神に選ばれ神と共に歩むものは、いつも神が喜ばれる事を選びなさいというのがこの言葉の意味です。この世がどんなに変わっていってもいつもみ言葉の上に立つべきなのです。
そもそもディナがシェケムにあったのもディナの好奇心からだったのです。「この地の人は何をしているのか?」そこでディナはカナンの地を見に行ってしまいました。好奇心は私たちも仕方ありません。でも私たちの心に好奇心や自分の考えにまさる神の言葉を置いておくべきです。それこそ私たちに生き方を教え、神のみこころを教えてくれるからです。
<ルイス・デ・アルメイダ>
年をとった証拠として会話に出てくるのは、病気や病院の話です。「私、どこどこの病院に行って‥が悪かったの」こんな話聞いた事ありますね。若い子はこんな話しませんからね!?
どちらにせよ皆さんも病院には行くと思いますが、日本で最初の西洋式病院は、大分に建てられたアルメイダ病院という病院でした。1557年にユダヤ系ポルトガル人宣教師で、医師でもあったルイス・デ・アルメイダ医師が建てた病院です。アルメイダはイエズス会の宣教師でもあって、かの有名なザビエルの活動を継承していた伝道師だったんです。今でもアルメイダ病院として大分で続いており、当初はハンセン病棟、内科・外科病棟で始まり、日本最初の医学校も併設されていた病院でした。この病院では、日本で最初の外科手術が盛んに行われたんだそうです。そしてこの外科手術を執刀したのはアルメイダ宣教師でした。日本で、人体に初めてメスを入れたのはアルメイダ宣教師という事になります。
彼がなぜ伝道師になろうとしたのかというと、彼はクリスチャンの家庭に生まれますが、あまり教会には興味がありませでした。そして23歳で貿易商としてビジネスの拠点をアジアに持っていました。そこで3人の神父と、2人の修道士との出会ったのです。当時アルメイダは世の中にどっぷり浸かっていたのです。でも彼らを通して神を知り、聖書を通して彼は福音の素晴らしさを知ったのです。彼は自分が得たいものは持っていたのです。名声も富も。でももっと素晴らしいものを見つけたんです。それは神が与えた人生を神のために使うという事でした。幸運にも彼はもともと外科医師の資格を得ていたんです。アルメイダは、1555年、修道士の道を歩む事になった時、彼は 商人として得た富のすべてを、人々の救いのために捧げると決めて、その全てをささげました。そして彼の人生さえも、彼に影響を与えた修道士が仕えていた日本のためにささげたのです。日本で自分の才能を活かし医師として、また修道士として偉大な業績を残し、人々に仕え、神に仕えたのです。
世の中にどっぷり浸かり、何がいいのかもわからなかった若きアルメイダさんを変えたのは、神の言葉だったのです。私たちも神に選ばれたものとしていつも神の言葉に耳を傾けるものでありたいですね。
では、続きを見ていきましょう。「この世と調子を合わせない」という意味では今日の箇所のヤコブの息子たちの怒りは正しいものでした。シェケムがディナにした事は、風習でありなんであり間違った事であったのです。でも兄弟たちの怒りはシェケムがした行為がただ道徳的に間違っていたからではありませんでした。兄弟が怒りを表したのは、もちろん自分の愛する妹が辱められてしまったからです。
その怒りは今日の箇所でおさまる事はありませんでした。ヤコブにシェケムの父ハモルが結婚の相談をすると、ハモルはV12ディナを嫁にもらうためであれば、どんな高い花嫁料も払います。と言ったのです。つまり「ディナを嫁としてもらうのであれば、なんでもしますよ」と言ったんです。するとヤコブが答えたのではなく、ヤコブの息子たちが答えてこう言ったのです。V15「割礼を受けて私たちと同じになるように」といったのです。割礼は男性が生まれて8日後に性器の包皮の一部を切るという儀式だったのです。これはヤコブのおじいちゃんアブラハムに与えた神との契約の儀式でした。それをヒビ人もするようにというのがヤコブの息子たちが言った事でした。もちろんこれはヒビ人をおとしれようとしていたのです。するとハモルはそれを自分の部族に伝え、そしてすべてのヒビ人の男性が割礼を施したのです。もちろん皮膚を切る作業なので痛みます。でもそれが痛んでいる3日後ヤコブの息子のレビとシメオンがこの部族を襲い、すべての男子を殺し、すべてを略奪してしまったのです。
しかし、この事をヤコブは悲しんでこう言っています。V30「私をこの地の住人カナン人ペリジ人の憎まれ者にしてしまった。」つまりだまして殺してしまうなどこの地において良い噂になるわけがない。私を他の民族が追ってくるだろう。といったのです。でもヤコブのこの言葉に対してレビもシメオンも反省の色は見せなかったのです。V31「私たちの妹が遊女のように取り扱われてもいいのですか」
ヤコブの息子たちは 怒りに任せてすべての行動を起こしてしまったのです。
<2.怒りを制する>
私たちはいろいろな感情を持っています。喜怒哀楽と言ってもいいでしょう。でも怒りは怖いものです。今回の箇所のように怒りに身をまかせるとそこには滅びがあるのです。聖書も怒りに関して私たちにこう教えてくれます。
まずは怒りは①悪への道であるという事です。
詩篇37篇8節
怒る事をやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
また怒りを表す人のところには②いつも争いがあるという事です。
箴言15章18節
激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める。
③神の義を実現するものではないという事です。
ヤコブ書1章19-20節
愛する兄弟たち。あなたがたはその事を知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
では、私たちは怒ってはいけないのでしょうか?いかがでしょうか?家に帰っても何があってもニコニコしている!?可能でしょうかね?それはもう人間ではありませんね。
実は神ご自身もイエス様も怒りを表しているんです。 神様ご自身は愛の神ですが、罪に対して怒りを覚えるお方です。ソドムとゴモラに対して怒りを憶えられました。イエス様もこの地上において怒りを表しました。新約聖書でも宮清めという場面があります。イエス様が神殿に行った時にそこで礼拝以外の事、人を騙す商売などが行われている事に関して怒りを表した場面がありました。
マルコ11:17「私の家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである」と書いてあるではないか。それなのに、あなた方はそれを強盗の巣にしてしまった」
聖書は怒りを全体に禁ずるとは言っていないのです。でもこう言っています。
エペソ4:26怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
つまり怒ってもいいけれども、罪はおかしてはいけないといっているんです。なぜなら怒っている事は罪につながってしまうからです。だから私たちは正しい事に関しては怒りを表してもいいけれども、ずっと怒りを持つ事は罪に繋がるから気をつけなさいと言っているんです。だからどんな事があろうとも話し合い、赦し合いなさいこれが聖書の命令です。なぜなら私たち自身もキリスト十字架によって全ての罪が神の前に赦された者だからです。全てを赦された者として赦し合うという事ですね。
<3つの滑車「霊・魂(心)・肉」>
あるクリスチャンカウンセラーの方の話です。私たち人間は3重構造である。霊、たましい、肉。でも私たちが行動を起こす時にこの三つが連鎖して行動が起こる。つまり霊には聖霊がいてくださる。 み言葉はなんといっているのか?神様は何を喜んでくださるのかをおしえてくれる。次に魂です。それは感情をつかさどっているのです。そしてそのあとに行動です。この順番に私たちが行動していればそんなに大きな間違いを起こさないでしょう。また何かを聞いた時にこの聖霊、感情、行動の順であれば、正しい判断をする事ができるでしょう。つまりこれは3両の列車なんです。この3つはどれが先頭にあるかが重要です。例えば聖霊がはじめに来ないで感情が先に来て次に行動が来てしまうと、これはただの自己中心です。聖霊の声を全く聞かずに行動してしまうのです。また行動が先に来てしまうのは一番恐ろしいかもしれません。何も考えずにただ行動してしまうからです。私たちはいつも聖霊という列車を先において考え、行動していく必要があるという事ですね。そしてこの聖霊を先頭に置く人生の歩みは安定した歩みになるのです。どんな山が来ようと、谷が来ようと聖霊が先頭でブレーキを開けてくれるんです。また必要な時には引っ張って行ってくれるんです。聖霊が先頭であれば分かれ道にきても導いてくれるんですね。
皆さんはどうでしょうか?いつも何かを聞いて、または物事があった時にどこが先頭になっていますか?感情でしょうか?何かを聞いて「わーーー、何でこんな事が起きるの!?」といっていつも感情を前にして行動していては、いつ間違いを犯すかはわかりませんね。
今日の箇所のヤコブの息子たちはまさに感情の列車が暴走してしまったのです。そしてそのまま行動に起こしてしまったのです。
この時のヤコブはどうだったでしょうか?ヤコブは一連の出来事の中で沈黙しています。これは何を思っていたのでしょうか?ヤコブは怒りもあったでしょう。でもおそらく神の前に祈っていたんですね。「この状況をどうしたらいいでしょうか?」
私たちもどうしても怒りを覚えてやまない時の解決策は「沈黙」かもしれません。よくイライラしてみんなにその怒りを言いふらす人がいますが、それは解決にはなりません。かえってそのような時には怒りに任せて思ってもいないような事を言ってしまうからです。
「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる」(箴言29:11)
こんな人もいます。復讐しなければおさまらない!でも聖書はこう言っています。
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのする事である。わたしが報いをする、と主は言われる』」(ローマ人の手紙12:19)
どんなに復讐したいと思っても、全てを裁かれる神に任せるという事です。全てを神に委ねる事こそ解決につながるのです。私たちは神の民として知恵のある、怒りを制するものになるべきですね。
ある女性の方の話です。この方は教会生活が長い方だったのです。教会のどこを見渡しても彼女を知らない人がいなければ、彼女が知らない人もいない。そんな彼女も一つの悩みがあったのです。教会の働きや奉仕に関してすごく真面目だった彼女は、しばしばいざこざを起こしていたのです。彼女の言っている事は客観的に見ても間違ってはいなかった。彼女は何か問題や改善できる事があると真っ直ぐに話にいったのです。それがいつの日か大きな怒りになって周りに当たり散らしてしまう、そのような出来事があったのです。ある時彼女自身「このままではいけない」と思ったのです。彼女は神様の前に悔い改め、「神様、私はどうしたらいいでしょうか?」と祈りました。すると、あるアイデアを思いついたのです。彼女はその日以来自分が思っている事を口には出さず、神様への手紙としてあるノートに書き記していったのです。自分が思っている事、間違っている事を「神様・・・」という書き出しで書いて行ったのです。「神様への愚痴ノート」ですね。ある日そのノートを書いていると、神様にこんな風に言われたような気がしたそうです。「あなたが怒りを持っているその人をも、私はあなたを愛するように愛しているんだよ」それを思った時に、彼女はハッとしこの言葉を思い出したのです。1ヨハネ4:20「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛する事ができません。」彼女は知っていたはずのみ言葉をもう一度改めて心に言い聞かせ「私は愛する人になりたい」と思うようになったのです。するとそれ以降、彼女の「愚痴ノート」は神様への「祈りのノート」に変わっていきました。そして、ある日を境に彼女はこう記しすようになったのです。「神様、私は彼らを愛します。彼らを私の人生に与えてくださり感謝します。彼らをあなたが愛するように愛する事ができますように」。なんと「愚痴ノート」は「祈りのノート」に変わり「感謝のノート」に変わっていったのです。これは彼女の内側が変えられたのです。彼女は神様に向かい合う事を通して変えられていったのです。
私たちの神様はどのような祈りも受け入れてくださる、最高のカウンセラーです。何かある時には神様に持っていきましょう。必ず神様が私たちに平安と解放と、癒しを持って解決してくれるからです。